君が君を好きでも、嫌いでも
昼下がりの喫茶店で、
目の前の友達が「俺は俺のことが嫌いだよ」と言う。
言葉にして、また少し自分を嫌いになったような顔をして、コーヒーカップに口を付ける。
……ふぅん、そうですか。
飲食している姿をじっと見つめられたら嫌だろうな、と思って目線を外し、奥の席に座るカップルの姿をぼんやり眺めた。
嫌い、か。
出会った頃から、まぁ…そんな気はしていた。
うっすらと灰色を纏った瞳で、人の話はいくらでも楽しそうに聞くくせして、自分の話はほとんどしない。話を振られても、するりとその手を抜け出して、軽やかに、柔らかい笑みを見せながら静かに心を離していく。誰にも気づかれないように。そういう人だ。
家族の話は聞いたことがない、過去の話もほとんど聞かない。どんな人と過ごし、なにを経験して、ここまで大人になってきたのか。
興味がないわけじゃないけど、私も聞こうとは思わない。
そのほうが心地良いなら、それがいい。
「ごめん」
「…え?」
「聞きたくないよな、こんな話」
「え、そんなことないよ」
きっと私が黙ったから、自分の言葉で暗い気持ちにさせてしまったと思ったんだろう。誤解を解くために、顔を上げて否定する。
「好きになれたほうが、いいとは思うんだけどさ」
それが自分自身のためなのか、自分を思ってくれる人のためなのかは、わからないけれど。
少なくとも今の言葉は、私のためにわざわざ口にしたと思うから。
「…君が自分を好きでも、嫌いでも、変わらないよ」
「うん?」
「君が君を嫌いでも、私はいつでも君が好きだよ。変わらないよ。」
そりゃあ……嫌いでいるよりは、好きでいてくれたほうが嬉しい。
泣いているよりは、笑っていてくれたほうがいいのと同じように。
でも、だからと言って「泣いている君は嫌い」と言う友だちが居るのだろうか。そんなに地盤がゆるいなら、わざわざ人と繋がりたいなんて思わない。
大好きだよという気持ちの深層には、異質な“無関心”がある。
君が君をどう思っていようが、何をしようが関係がない。
その事実によって、ちっとも影響されたりしないし、影響を受ける心配もしていない。1ミリも。だから“どうでもいい”にすら近い。
例えば、こうして話をしている最中に、心の中では静かに「この人面白くないな」とか「好きじゃないな」と思われていたとしても、自分の心に充満している「好き」とは、なにも関係がない。それはとても、独りよがりな歪みなのかもしれないけれど。
でも、そう思ってしまうのだ。
「…ふは、いい性格してるよな(笑)。元気出たわ。ありがと」
「え、こちらこそありがとう(笑)」
──例えば、この時もらった「ありがと」が口先だけの言葉だとして。いつかもらった「好きだよ」も、適当な嘘だったとして。
それを確かめようと、言葉の裏をほじくることに、なんの意味があるだろうか。
受け取って嬉しかった、たまらなく嬉しくなった。
それが私にとっての「本当」だ。こういう感情も、異質な無関心のひとつなのかもしれない。
いいんだ。嘘でもいい、嫌いでもいい。
私にとって相手が持っている真実のカタチは、大好きだよという沼に落ちていく、微々たるものに過ぎない。
だからしぼりたてのままで、「大好きだよ」と言っていたい。
大好きな人たちに向けて、いつもそう思っている。
この気持ちを書いておきたいな、と言ったら、書いておいてよと言ってくれたので、残してみた。
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