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誰かのニーズを満たしながら自分さえも満たすマーケターになるまでのおはなし

このnoteは、何もできないちっぽけな人間だった私が、マーケティングの道を志すようになるまでのお話です。

フリーランスのマーケターとして、一体何をやっているのかというと、アフィリエイトなど収益源となるサイトの運営及び、個人のブログを強くするためのコンサルをしています。

ただし、ここまでの道のりは単純ではありませんでした。マーケティング学部や専門校などでは学んでおらず、IT業界さえ未経験の40代が、そう簡単にマーケターになどなれるわけがありません。

今の状態になるまで、試行錯誤しながら2年間、岩にかじりつくような気持ちで続けてきました。コピーライティング、セールスライティング、各種マーケティング手法についても、動画の授業を何度も一時停止しながら、ノートの余白がなくなるまで書き込んで学びました。

そこには受験勉強や資格試験とは別種の、独特な、先の見えない恐怖とつらさがありました。

私はメンタルが弱い自覚があります。頑張った割に、思うような売り上げにならなくて泣いたり、時には一睡もできなくなったりもしたものです。

これだ!と思うような言葉がなかなか降りてこないこともストレスでした。胃が痛くなり、病院に行ったら十二指腸潰瘍だと言われたりもしました。

それでも私は、やり抜くと決めていたのです。

ちっぽけで何者でもない自分でも、「ここに存在していていいよ」と許されたい。そんなヒリヒリするような…いや、胃までキリキリするような渇望を満たしてくれるものが、ネット上で誰かの「なんとかしてほしい」「助けてほしい」を満たす作業だったからです。

私はひねくれていて、とっつきにくくて、面倒くさい人間でした。
そんな私が素直になり、正直な気持ちを吐き出せるようになるまでの軌跡を、ほんの少しだけお見せしたいと思います。



私の一番幸せだったころの記憶は、2歳の初夏の記憶。裏の広大な空き地で(広大と言っても、大人になって改めて見たら戸建てが一軒おさまるくらいのスペース)いちじくをもいで食べた記憶。刑事ドラマの犯人役が住んでいそうな昭和の2階建ての小さなアパート。乗り物が好きで、ショッピングカートや掃除機を乗り物にして、またがって遊んでいたっけ。

遊びといえばお隣に住んでいた、4歳年上のえい君とはよく一緒に遊んだものだ。彼の名前が英二だったのか、はたまた瑛太だったのかは覚えていない。えい君とは、かけっこや鬼ごっこをした。ダンボールの秘密基地も作った。おむつの取れていない私は頭の方が重くて、よく転んで泣いていたっけ。


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私はその頃、自由だった。


母は厳格な人だった。「だった」と言っても死んでしまったわけではない。滅多に会う機会がないだけの話だ。

私が言葉を自在に話し自分の足でまっすぐに歩けるようになると、英才教育が始まった。ルビはふってあるけれど、とてつもなく難しい本を読ませられた。だから画数の多い自分の名前を全て漢字で書くことも、3歳の時点でできた。5歳くらいになると、小学校高学年向けの本も簡単に読破した。

全くもって、子供らしい子供ではなかったと思う。

たとえば、誰かの家に招かれると大抵お菓子を出してもらえる。しかし私は、すぐに手を出してはいけなかった。お口がきれいでなければならない。というのが母のモットーだった。「お口がきれい」って、最近聞かない言葉だから、どういう意味か分からない人のほうが多いと思う。つまりはガツガツするのははしたないという意味だ。

だから私は目の前に大好きなチョコレートが出てきても、どうぞと3回勧められるまでは手を付けなかった。幼い子供がお行儀良くしているのを見て、「子供らしくしなさい」とたしなめてくれる人は、残念ながらいなかった。大人にはいつも褒められた。雪ちゃんは偉いね。雪ちゃんはすごいね。私は得意だった。わたしって偉いんだ。わたしってすごいんだ。


私は同年代の子供に対して人見知りなところがあり、幼稚園には行かなかった。友達というものを作るのに興味もなく、小学校に上がるのも嫌がった。だって、価値観も知らない見知らぬ人と、長時間を一緒に過ごさなければならない理由がわからなかったから。と、書いていて今思ったが、これ……どう考えても幼稚園児の思考ではないよね。

小学校1年の1学期に、私は確信した。

わたしは変だ。みんなと違う。アイドルなんて知らない。ドリフのコントもわからない。当然だ。私はテレビも漫画も禁止されていた、というより知らなかったし、与えられていなかったのだ。

その頃、スーパーマリオが流行っていた。友達の家に遊びに行くと、みんなは得意げな顔でマリオを操作し、キノコを潰したり水中や土管に潜らせていった。私にやらせると、一面でゲームオーバーになるのが面白くなかったのだろう。そのうち、誰も誘ってくれなくなった。


小学校で私をいじめる人はいなかった。いじめるというよりも何か、異質なものを見るような目をされて、遠巻きにされていたと言った方がいいかもしれない。物を隠されるような他愛もない意地悪をされたことはあるが、言葉や身体の暴力を振るわれることはなかった。

それでも消えない強い違和感に、耐えかねた私は
なんでうちはみんなと違うの?と、母に尋ねた。

彼女は困った顔をして、
あたりまえでしょう。あなたは他の子とは違うんだから。
と、どこか自分に言い聞かせるように答えた。


私はいろいろなことを禁止されながら生きた。
約束を破ったり、決められたルールに従わない時は、革のベルトでおしりを叩かれたりもした。


お母さんが良いという友達としか遊んではいけない。
下品なテレビ番組を観てはいけない。
コーラは骨が溶けるから飲んではいけない。


テレビ番組やコーラは成長するにつれ許されていったけれど、私はいつからか自分で自分を評価できない人間になっていた。気にしたのは母の目だけではない。教師、友人、誰でもいいから良い評価をつけてもらうことによって、生きる理由を繋ごうとした。少女は10歳にもならずして、そんな卑屈な人間になってしまったのだった。


どんな自分でも認められたい。
けれど、良い子でなければ認められない。

一体、何歳になるまで「良い子」でなくてはならないのだろう。
成人したら、どんなわたしでも許されるのだろうか。


できるだけ目立たず、人波に溶け込むように過ごした中学生時代を終え、私は公立高校に進学した。高校デビューという言葉があるが、私は人が変わったように、まさに別人になった。

髪を染め、ピアスの穴を開けた。今の基準で考えると笑ってしまうが、茶髪とピアスは当時、不良の象徴だった。母はすさまじく怒ったが、私は頑として譲らず、「ちゃんと勉強するからいいでしょう。不良にはなりません」と言い続けて納得させた。

高校では、かなり人気があった軽音楽部に所属することにした。私はベース兼ボーカルを打診された。ボーカルは目立つから、可愛くなくてはならない。プチプライスの化粧品を買い、こっそりメイクをし、髪型も流行の最先端にした。スカートはもちろん、限界まで短く折った。

これは私の承認欲求のなせる業だった。つまり認められそうな場所を選んで所属し、誰かに認められることをして、あわよくば認められようと思ったわけだ。


私はその頃、勉強すると言っては頻繁にカラオケに行った。「勉強をする」という言葉は便利で、友達の家に泊まりに行って朝まで遊んだりもした。そのたびに胸は痛んだ。母が悲しむことを知っていたからだ。私は、それまで培ってきた「自分の中の良い子」を捨てるという反逆行為に満足しながらも、そんな自分が大嫌いだった。

校則は非常にゆるかったが、高校は進学校だった。家では今まで通りの良い子でも、何かが変わってしまった娘の雰囲気を察していた母は、私を信用していいのかどうか決めかねている様子だった。

しかし、そんな様子さえ私は敏感に察した。そして、満足のいく結果(学区内で1位の成績)を取ってみせた。次第に母は、何も言わなくなった。


そんなに勉強ができたにも関わらず、私は大学には行けなかった。

理由?簡単。お金がないから。


超就職氷河期世代だったから、周りの友人はみな進学かアルバイトの二択で、正社員採用に漕ぎつけた人はほんの一握りだった。ご多分に漏れず、私も卒業後は実家の仕事を手伝いながら30歳近くになるまでを過ごした。

家業はそれなりに繁盛していたが、それでも自転車操業だった。一等地のテナント料金は月に30万円を超えていた。光熱費に更に数十万円。父の高齢化と、月々の支払いが間に合わなくなったのをきっかけに廃業を決めたその年、私は実家を飛び出した。

とにかく自由になりたかった。

私は見知らぬ土地で、職を転々とした。レジ打ちから事務、倉庫の作業員まで何でもやった。就職なんてできるわけがなかった。私には、職歴がなかったから。


20代で私は2つの大きな出来事に遭遇した。ひとつめはバイク事故で脳を損傷し、命は助かったけれど「高次脳機能障害」という後遺症が残ったこと。見た目はどこも悪くないのに、情緒だけが不安定になり、これまで我慢できたことも全く我慢できなくなった。だからちょっとしたことで激昂し、母にも友人にも暴言を吐いた。

雪ちゃんがおかしくなっちゃった。

そう言って母が泣いていたのを今でも鮮明に思い出す。私は精神科に通うことにしたが、医師はただ大量の薬を処方するだけだった。言語中枢のあたりを損傷したため、感情と言葉がうまく結びつかなくなった。言葉を紡ごうとすると途端に消えていくような気持ち悪い感覚。私は人と会話することをやめた。思ったことをすぐ口にして、相手を傷つけてしまうからだ。

再就職活動が失敗したこともあって、私は次にうつ病を患った。うつ病は憂鬱な気持ちから始まるものだと思っていたが、全ての人がそうとは限らないらしい。頭がズキズキと痛く、体がだるくて起き上がれないので最初は風邪かと思った。初めは内科、あちこち回って最後に精神科に落ち着いた。また精神科。やっぱり私の行きつく先はメンタルの病院なのかと情けなくなった。

更に20代後半、私は甲状腺がんを患った。がんは無事摘出されたが、反回神経麻痺という後遺症が残った。反回神経というのは声帯まわりの動きをつかさどる神経で、水を飲むときに肺に水が入らないシステムはこの神経のおかげで成り立っている。

私は反回神経を麻痺したために声が出なくなった。原因は、私のがんを摘出する際、反回神経を傷つけたこと。医療ミスでは決してない。がんは複雑に絡みついていて、摘出に5時間もかかった。医師のおかげで私は救われた。だから恨む気持ちなんてさらさらない。

しかし、しゃべりたくない私の人生は、この分岐点で更に大きく急展開を遂げることになった。


うつ病が軽快した後も、かすれるような囁き声しか出なくなった私にとって、人とコミュニケーションを取ることはとても困難だった。軽音楽部でボーカルをやっていたあの頃の美声はもうない。だから憂さ晴らしのカラオケさえ行けなくなった。

何か言えば「え?」と怪訝な顔をされる。2度3度と根気よく言い直しても無駄だった。私は英才教育の一環として手話が少しできるのだけれど、ろう者以外には伝わらない。しゃべらない人。付き合いの悪い人。そう思われるようになった私は対面での人間関係を避け、オンラインゲームに没頭するようになった。

勝手にタイピングは上達したから、言いたいことは頭で考えた後ほんの数秒で文字に変わり、チャットでスムーズに相手に伝えることができた。


チャットの話題はゲームのことばかりで、自己開示なんて必要ない。

私は自分を出さない人間に育ったが、更に人と会話しないことでどんどん内向的に、内に引きこもる生活がラクになっていった。強いレベルの人しか行けないところに独りで行って、敵を狩りまくった。パーティに所属はしていたが、うっとうしくて大抵は単独行動だった。

期せずして攻撃的な性格になってしまったからこそ、私は空気を読んだ。人の心を察し、敵ができそうになったら擦り寄って仲良くする。いつもヘラヘラ馬鹿みたいに振舞って相手に気分良くいてもらう。本性を知られるのが怖かった。だって、自分でも大嫌いな私をありのまま認めてくれる人なんて、この世には存在しないと思ったから。


1年後、私は声を出せるようになるための手術をした。地声が元に戻ることはなかったが、話せば一応は聞こえるようになった。

職場では常に騒音があり、皆大きな声で話していたので、私も無理して大声を出した。大声と言っても、普通の人が普通に話すくらいの音量だ。みんなは「もっと声を張ってよ」「聞こえないよー」と笑った。そのたびに、大きな声は出せないのだと説明した。しかし、人は自分が同じ状況にならないと相手の事情など想像できないのかもしれない。何度も何度も、笑われた。


私は割と身長が高い上に華奢なタイプではない。「大柄でしゃべらない人」というのは、なぜかドン臭く思われがちだ。だから私は自分の限界まで機敏に動くようにした。誰にも文句を言わせない自分になろうとした。人の評価ばかり気にする自分のことが、更に嫌いになった。そうすると次第に、周囲の人のことも嫌いになった。

みんな嫌いだ。人間なんて、大嫌いだ。


そんな時、派遣先で出逢った男性が、今の夫。
彼はいつも物静かで、人の悪口を一切言わず、誰からも好かれていた。職場の飲み会ではいつも彼が幹事をやっていたのだが、私は何故か非常に気になって、普段絶対に行かないそれに参加するようになった。

一度、彼の前でべろべろに酔うという失態を犯した。彼は私を家まで送ってくれた。よくある漫画の展開みたいな、甘酸っぱい付き合い方。

しかし、しょっぱなから「結婚しよう」と言われたものだから、私は度肝を抜かれてしまった。

結婚するって?

私の一体どこを見て、結婚するなんて言えるんだろう。そんなに簡単に決めてしまうなんて、この人は案外何も考えていないのじゃないだろうかと私は思った。


私のどこが好きなの?と、私は訊いた。
きっと彼は、自分の良いところを教えてくれるのだろうと期待した。その言葉に納得したら結婚しようと思った。そう、もし彼が、空っぽな私に自己肯定感を与えてくれる人だとしたら。

しかし、困ったように彼は答えた。
どこって答えなくちゃダメなの?……と。
そして、私の顔も性格も好きではあるけれど、そんな単純な話ではない、ということを言葉に詰まりながら懸命に説明するのだった。


私は、心から納得できないまま彼と付き合い始めた。その後に知ったのだが、彼もまた父親からの虐待被害者だった。おそらく私よりひどいのではないかと思う。彼の父親は、機嫌が悪くなると物にも人にも当たり散らす暴君だった。その心理的ストレスのせいで彼は声が出なくなった。そして、物理的にもう二度と会うことが不可能になった今でも、人前で大声を出すことができない。

声が出ない人が、ここにもいた。
私たちは、出逢うべくして出逢ったのだと知った。


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同じ職場で、そして劣悪な環境で働いていた私たちは、なんとかして脱サラならぬ脱派遣をしようと試みた。オンラインでの仕事を見つけようと思ったが、私たちにプログラミングスキルやデザインのセンスはない。でもタイピングはそれなりに速く、文章を書くことも苦痛ではない。だからまず、自分の体験をブログで綴ることから始めた。

最初は誰も来なかった。これが想像以上につらくて、何度も諦めようと思った。それでもがむしゃらに続けていると、ネットの向こう側にいる顔も知らない誰かが、毎日のように見に来てくれるようになった。

お金が欲しい。しかしお金より先に共感者が欲しい。私たちは相手が何を求めているのか知ろうとした。ターゲットやペルソナ、ニーズだのウォンツだの、そんな小難しいマーケティング用語も知らないうちから。それは自分自身を満たす作業でもあった。物を売ることより先に、自分自身が求めているものを探し、まずは自分に寄り添うことに専念した。また、就寝時間以外全ての時間を費やして、貪欲に学び続けた。

するといつの間にか、リンクがクリックしてもらえるようになった。報酬が発生しましたというメールが毎日届く。誰かが商品を買ってくれたことを知り、私たちは手を取り合って喜んだ。それからは派遣の仕事をどんどん減らし、半年後には辞めることができた。

何なんだろう、この充実感は。

人の顔色ばかりうかがっていた私は、自分の欠点が長所に変わることを知った。幼少時から培った、人の気持ちを察しすぎるナイーブさは冷静な洞察力に置き換わった。心の傷は完全に癒えなくても、同じように心に痛みを負った人が心地よくいられる空間を自然と作ることもできる。今までの経験は、何も無駄にはならなかったのだ。

私は自信のない人の背中を押してあげられる。誰にも認められずにくすぶっている人が前に踏み出すきっかけや、力を与えることもきっと可能だ。そのことに気づいてから、私は顔を公開することにした。どこか臆病さが透けて見えるような気がする顔も、ハッキリしない声も相変わらず好きにはなれないけれど、カメラの前で話すのは思ったよりは簡単だった。苦手だった初対面の人との会話も徐々にできるようになり、相手の抱える問題点を聞きながらアドバイスすることもできるようになった。

「記事の添削、ありがとうございました」
「目からウロコでした。自分はもっと相手に寄り添わないといけないと強く思いました」

お礼の言葉が届くたび、私はどんどん強くなる。今でもたくさんの友達は要らないと思っているけれど、もう新しい仲間を作ることや、誰かに胸の内を語る恐怖感はない。どんなに頑張ったって、私を必要としない人はいる。それでも私が誰かの役に立つことができるのならば、歩みを止めずいつまでも動き続けたいと思っている。



できるだけ短くまとめようと思ったけれど、ちょっと暗くて長い話になってしまいました。毎日笑顔で今を生きられている私が存在するのは、過去から続く一本の暗く長い道程を歩いてきた結果ですから、どこかを省くとその道が繋がらなくなってしまうような気がしたのです。

私と母の関係は、今、「つかず離れて」いると思います。絶縁したわけではありません。この距離だからこそ過去に縛られずに済みます。もう彼女を恨む気持ちは1ミリもなく、ここまで正直に本音を書いてきましたが、今では感謝の気持ちを持つことさえできています。

「理想の育児ができなかった。悔しい。赤ちゃんの頃から育て直したい」

私に対し、そう言ったことがある彼女もまた、完璧主義の奴隷だったのです。だから、歩み寄ることはまだ難しいけれど、これ以上遠ざかることはしません。ただ、自分を許せる人になっていてほしいなと願うばかりです。私は育て直されなくても大丈夫だよ。自分の足で生きていけるよと、きっと近い将来には伝えられるでしょう。


これまで天真爛漫にのびのびと、何の不幸もなく生きられていたら、おそらく全く違った人生を歩んでいたのかもしれません。しかし、それが良いのか悪いのかなんて、どうでもいいのです。だって私には、何も後悔することなどないのですから。

今年も帰省の予定はないけれど、年賀状を書くつもりです。

元気ですか?私は元気です。と。


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