納豆が消えた日

僕は納豆が大好きだ。

家で食事する時は、ほぼ必ずといっていいほど納豆を食べる。幼い頃から続いている習慣はもしかすると、これしかないと思う程である。


だが、2020年3月下旬のあの日、スーパーへ行ったら納豆がなかった。
棚からキレイさっぱりと、姿を消した。近くにある別のスーパーでも、同じだった。

なぜかこの事が無性に腹立たしかった。突然の理不尽に遭遇したような気持ちになった。買占めによって、僕は納豆が買えなかった。

もちろん台風や大雪など、本当に食糧を備えるべき事態なら仕方がない。何も一日くらい納豆が食べれないことで腹立てたりしない。しかし、都知事の緊急会見が開かれたあの日、どんな理由があって納豆を買い占める必要があったのだろうか?

この事は、目まぐるしく変わっていく状況の中で、頭の片隅に追いやられたかに思えたが、消えてはいなかった。


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不確実な現実に対して、それを遠ざける行動をとりたいと思うのは誰しもあるだろうし、それを否定するわけではない。

だが、私権の侵害とも思われるレベルの独断的な規範に則り、その規範から外れる人々を(わざわざ現地に出向いてまで)全国に知らしめ、いまだに敵と友を作るマスメディアには辟易とするし、ナンバープレートの表示、感染歴による攻撃などが絶えないことにも呆れる。極端な事例ではあるにしろ、一見それらしい理由を身にまとった行動のエスカレーションは、各地に現れているように思える。

僕が苛立ちを覚えてしまうのは、そこに「他者」の存在があるのだろうかと勘繰ってしまうからだと思う。対象は、自らへと向かってしまっている。その兆候はどこにでもあるし、いつでも起こりうる。


あの日、スーパーから納豆が消えてしまった光景を、忘れられない。



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