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~ 結婚前夜の贈り物 ~ シューマン 歌曲集 《 ミルテの花 》 より 第1番 〈献呈〉


 古今東西、この世で最高に美しい音楽の贈り物といえば、ローベルト・シューマン(1810~56)が結婚前夜、愛する妻となるクララに捧げた《ミルテの花》ではなかろうか。

「できるだけ丁寧に、上品なデザインの装丁でお願いします。この歌曲集《ミルテの花》は、結婚の贈り物にしたいので」

 シューマンから出版社へのこうした依頼により、愛の象徴とされ、花嫁のヴェールを飾る香り高いミルテの花に抱かれた、美しい装丁の歌曲集が誕生する。「我が愛する花嫁に」という献呈の言葉も添えられて。

 シューマンは生涯に渡り、ただひとすじ愛するクララへの想いこそが音楽の原動力であった。ジャンルごとに作曲の時期が集中され、ソナタや〈幻想曲〉といったピアノ曲に始まり、歌曲、交響曲、室内楽、やがては歌劇に、オラトリオと、規模も発展させながら、名曲が次々と生まれていく。
 そして2人が結婚する1840年は、まさに歌曲の年であった。
 この年、クララへの愛から、とめ処もなくあふれ出た140もの歌曲。その中でも《ミルテの花》は、叙情性に満ち、旋律も自然で歌いやすく、《詩人の恋》や《リーダークライス》、《女の愛と生涯》と並ぶシューマンの代表作であり、珠玉の愛の歌曲集となっている。

 1840年の2月だけでも、1ヵ月のうちに25曲もの歌を作曲していたシューマンは、当時、クララへの手紙でこう述べている。

「昨日の朝、おおよそ20ページの、いくらか新しい音楽を書きました。書いている間、ぼくは喜びのあまり、笑ったり泣いたりしていたのですよ」

 対するクララからの返事は、

「愛するローベルト、どのようなものを書かれているのでしょう? 四重奏? 序曲? 交響曲? あるいは……、もしかして、結婚の贈り物だったりするのではないかしら?」

 きみは我が魂、我が心、我が喜び……、
 そして哀しみ
 
 第1曲目の〈献呈〉は、リート史上、多くの作曲家から最も愛されたロマン派詩人、フリードリヒ・リュッケルトの詩による輝かしい愛の歌。歌詞のとおり全身全霊で恋人を熱烈に慕う高らかな想いが描かれる。

 私事ではあるが、かつて「遍歴の音楽一座」なる、プロアマ問わずの演奏会を趣味で企画していた折、「愛の贈り物」をテーマとした会で、アマチュアながら素晴らしき美声と実力を兼ね備えた友人に、この曲をリクエストしたことがある。彼女が「先生にレッスンを受けるので、良かったら付き合ってみない?」と誘ってくれたので、大喜び、興味津々で、いそいそと聴講させて頂いた。
 大先生の前でも全く物怖じすることなく、それは美しく素敵に歌った彼女への先生の助言は、実に新鮮で納得のいくものであった。
 
「例えば、小鳥のヒナが天敵に襲われそうになると、親鳥は羽を精一杯広げてヒナを包み込んで守ろうとする。そんなイメージ。多くの日本人は、『自分が覆い被さって我が子を守る』、そうした気質がDNAに受け継がれている傾向にありがちと思われるし、今の貴女の歌も、深い愛情は感じられるけれど、この歌の本質は、そういった、ひたすら美しく献身的な愛だけじゃない。
 猛獣だったら? 敵に背を向けたりしないで、ガーッ! と踏ん張って立ちはだかるのでは? 
 この歌はね、そうした肉食獸の命懸けで闘う愛、つまり草食の農耕民族じゃなくて、肉食の、狩猟民族の話なんだよね。
 なので、もっと力強く、激しく、本気の情熱でもって歌い上げるように」

 何年も前のことなので、先生の言葉は大分変換されていそうだが、大方このようなニュアンスだったと記憶している。先生の演じる小鳥や猛獣の具体的かつ迫真の演技付き指導はたいそう説得力があり、いたく感心させられた。
 そして心優しく華奢で上品な、美しきヒロインだったソプラノの友人は、剣を振りかざして敵の首領を大声で撃退する堂々たる女王へと瞬時に変貌を遂げ、命懸けて勝ち取った勝利の愛を高らかに歌い上げたのであった。
 
 とりわけシューマン初心者の方々に、ぜひお勧めしたい映画「愛の調べ」という往年の名作がある。重要なテーマ曲が、まさしくこの〈献呈〉で、ローベルトとクララが貫き通す誠実な愛が、数々の名曲と共に彩られており、音楽の使い方も、ルービンシュタインのピアノも素晴らしく、筋金入りのシューマニアーナでも文句なく納得できる、実に良心的な内容となっている。

 劇中、〈献呈〉を、自身のピアノ編曲版により、華麗なヴィルトゥオーゾで披露した F.リストに対し、キャサリン・ヘプバーン演じるクララが原曲をピアノで優しく奏でながら「この曲は、表面的な華やかさなんかではなく、何の飾りもない、ただの純粋な深い愛……」と、やんわりと、しかし辛辣に釘を刺す場面がある。そしてリストは、それが的確な批評だと素直に認める懐の深さを見せていた。

 映画では批判されてしまうが、リストによるピアノ独奏版の〈献呈〉は、シューマンの歌曲特有の、そして最大の魅力でもあるピアノ伴奏の絶妙な音型を引き立たせつつ、更に華やかな色彩が加えられている。原曲に対する誠実な姿勢は、トランスクリプション(編曲)の天才でもあるリストならでは。清らかで優しげな冒頭から、感情は次第に高まり、ドラマティックな激情へ。まさに立ちはだかる西欧人の、堂々たる愛が描かれている。

      小冊子「名曲にまつわる愛の物語」より

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