「物語」こそいま必要なものである
あなたの心に残っている映画はなんでしょうか。
少し都会にいれば映画館は多くあるし、今ではパソコンやスマートフォンで見ることもできるようになった。かくいう僕もNetfrix、huluに登録して各毎月1000円ほど払って好きな作品を好きな時に見ている。邦画、洋画、アニメ、雑食的に色々な作品を見ているが、特に最近は外国ドラマにハマっているのだ。最近で言えば「Breaking Bad」「Stranger Things」「Walking Dead」。
特に「Walking Dead」は僕が海外ドラマを見るようになったきっかけにもなった作品で、日本でも人気のあるゾンビ系の話。ゾンビ映画の歴史は深く、他にゾンビ作品を見たことはあるがまだ語るれるほどではないので、後日観てみたいと思う。「Walking Dead 」は2年ほど前にツタヤで偶然見つけてすでにシーズン6ぐらいまで進んでいた。(現在はシーズン10まで出ている)物は試しと1話から観てどハマり。一日3話毎日観て一気に最新話まで追いついた。その副作用か毎晩悪夢にうなされ始め、不眠に陥ってしまった。夢は記憶整理の副産物であるというものの裏付けが自分の中で取れた瞬間でもあった。
映画で言えば、アプリで検索すればやれアカデミー賞やパルムドール賞をとった作品など、見る前からある程度の良い評価を期待できる作品を選んでみることができ、期待を外れることがあまりない。外れたと思っても✖️ボタンを押せば中断できる。
とても便利なことだが、ある種の違和感も覚えることがあった。
幼稚園、小学校ころのことだろうか、父とよく映画に行ったことを覚えている。
車で行ける範囲に映画館があり、そこにゴジラを観に行っていた。今ではその映画館はないだろう。それでも映画が始まるまで階段に座って待つ光景や近くにユザワヤがあり意味もなく手芸用の布を見ていたことも覚えている。
当時のゴジラは同時上映があり、必ずゴジラの前にとっとこハム太郎が上映される。特にハム太郎が好きなわけではなかったが、子供の僕にとっては楽しく観られるものだった。しかし大人である父にとっては難しかったのだろう。100%の確率でハム太郎の時は寝ていた。子供ながらにゴジラを観るためにハム太郎に付き合わせてしまっている感じがして、わずかに後ろめたさも感じていた。肝心のゴジラの内容は覚えていないがそこに至る景色や感情はうっすらとだが刻まれているのだ。
中学生の時、友達と「HACHI」観に行った。リチャード・ギア主演の日本の「ハチ公物語をリメイクした作品だ。作品名や内容を覚えるのが苦手な僕でも覚えていることは、劇場公開日だった8月8日に友達と行ったということと、初めて映画で泣いたこと。
当時の僕は映画、ドラマなどで泣いたことがなくコンプレックスのようなものがあったがそれを打ち破った記念すべき日でもあった。とても感動のしたのだが友達にはあまり響かなかったらしく美味ようなリアクションで、陰気な僕はそれに合わせてあまり良くない感想を合わせて言ってしまっていた。
最近の僕は一人で映画に行くことが多い。利点としては好きな映画を観られることや映画の前後に好きなように行動できること。書いていてかわいそうなやつだと俯瞰してしまう気持ちは抑えたいが、この時勢が落ち着いたらぜひ映画館に足を運びたい。
人間は物語に興味を持つと言われる。好きなアイドルが成長して夢を叶えていく姿、ドキュメンタリー番組で垣間見る、人が苦悩し戦っている様。だからこそ架空の話だとわかっている映画やドラマでも人が感情移入して泣いたり笑ったりするのだろう。自分を振り返ってみても作品の内容よりもその時の感情や情景、誰と行ったかなど作品を見ること以外のことをよく覚えていた。
世の中の動きが止まってしまっている中、一人一人の物語を進めることが難しくなってしまった。自宅待機が必要になり、新しいことや安らぎを求めに足を運ぶことができない。
そんな今こそ物語が必要なのかもしれない。
自粛期間が収まり外出が可能になった時に何をするのか。もしかしたら、地球規模の危機があってずっと家にいた後に、大好きなあの場所にあの人と行ったんだ、と語らう未来が来るのかもしれない。そんなことを考えていたら外出復帰の一発目どこに行こうか少し緊張してしまう。考えすぎるのもあまり良くないようだ。
それでも、外出できたらあの人とあそこに行こうと、今から想いを馳せてみるのも悪くないかもしれない。
僕はどうするだろうか。
いつも行っていたあの映画館にまた行きたい。家でスマートフォンでみるのと映画館でみるのとは全く違う。服を着て、電車に乗って、たまには一人ではなく誰かを誘ってみようと思えるのは怪我の巧妙と言えるだろう。
その日僕はどんな物語を紡ぐのだろう。
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