コロナ過の状況で死生観について考える

昨今コロナ禍で閉塞感が漂う世の中ですが、個人的にはちょっと違和感を感じる事が多いので、問題提起として今回レポートにまとめてみます。

下は理学博士で東京大学 定量生命科学研究所 教授の小林 武彦氏の著書「生物はなぜ死ぬのか」からその一部を紹介した記事である。
https://note.com/preview/n02294e6b1198?prev_access_key=667ff76e813030e231aa41340c25ec14

私は、理系はからっきしなので、医学の世界の事は疎いが、それでも全ての生命には寿命があり、いつかは死ぬことを知っている。社会経済の発展と医学の進歩により、人間の寿命が近年特に顕著に伸びている事はある意味素晴らしい事ではあるが、大切なのはとりわけ健康寿命の延伸である。

生物はまず、自力で移動が出来なくなった時点で死を迎える。競走馬等は、どれだけ素晴らしい血統で賞レースを幾度制しても、骨折により直立が難しくなり回復が困難になった時点で安楽死させられるそうである。勿論、競走馬としての役目を終えたという事もあるが、それ以上の延命は痛みと苦しみしかない事を永年の経験で知っているからこその処置であろうと思う。

次に自分の口から食事を摂れなくなった時点で、通常自然界の中では生物は静かに死を迎える。

ところが人間は、更に記憶が混濁し、意識を失い、果ては自発呼吸を失っても生きながらえさせる術がある為、本人が望むと望まないとに関わらず生きながらえる事によって伸びる寿命も確実にある。

もちろん、私も安楽死や自死、ましてや他人を傷つける​等という事は不法行為であるし、決してあってはならないと考える。しかし自然死はどうだろうか?本人に十分な生命力と回復の見込みが有れば、どのような状況であっても医学の粋を尽くすのも妥当であろうと思う。しかしそうでない場合に、果たして医学と機械装置と薬剤の力で絶命を免れているだけだとしたら、それは最早生物として生きていると言えるのだろうか?

長寿になったが故に、死をタブー視する価値観が高くなり過ぎて、人は死に際とか、死に時を見失って、死生観まで失ってしまったのではないだろうか?

しかしてコロナに至ってはどうか?
勿論多くの場合が、上記のセオリーに従って対処していると思う。
ただ、ここで幾つか腑に落ちない疑問点が幾つか出てしまう。

①コロナの死者数は果たして本当か?
厚生労働省の方針では、仮に交通事故死であっても、老衰であっても、調べたらコロナ陽性であったら、コロナの死者数にカウントするそうである。果たして本当にコロナがトリガーとなって死んだ人は何人なのだろうか?

②コロナの死者の平均年齢は幾つか?
最近は変異株で比較的若い人も罹りやすく、死亡率も上がっているとの事であるが、コロナ死者の平均年齢は果たして幾つなのだろうか?
一説には70代とか80代という説も聞こえてくるが、本当か?

③病床ひっ迫数は何故解消しないのか?
世界の中でも陽性率、死者数は比較的少なく抑えられている日本。人口当たりの病床数は世界最高と言われている日本で、何故コロナ病床がひっ迫するのか?病院側にも色々事情はあろうが、緊急事態宣言を出す位なら色々手の打ちようはあるのではないか?
病院の資金繰りの問題なら財政投入すれば済む話。

④財政支援は何故、もっと早く十分な量を手当てしないのか?
国の借金がとか、インフレが、とか実しやかに語るが、そもそも貨幣制度だって人類の発明品の筈。昔の年貢米とか、金貨、銀貨なら物理的に無理な面もあるが、紙幣と硬貨であれば、印刷と鋳造を掛ければ、出来るのだから、経済理論にこだわってやらない理由が分からない。

⑤少子化対策はどうなった?
子供庁創設とか話はあるが、具体的に何をどうやってどの程度の成果が上がったら目標達成と見ているのか?民間ですら当たり前の青写真が全く見えてこない。そもそもコロナ禍で人と人との出会いを断ち、恋愛も結婚もましてや頻繁に病院に通う事になると思えば出産は激減しているのではないか?

全てにエビデンスがある訳ではないが、上記のような疑問が湧いてきては消え、一向に解消しないので、つい、穿った物の見方をしてしまう。

そもそも、少子化に甘んじて、高齢者医療に特化する事にどんな意味があるのだろうか?勿論、意図せず、コロナが原因で無くなられる方がいらっしゃるのは大変残念なことだが、70、80、90歳~のコロナ死をやっきに防いで、それで何年寿命が延びるのだろうか?
片やコロナが原因で結婚や出産を見送って、本来なら生まれて来る筈の命が一体幾つ失われて行っているのだろうか?

政治家やマスコミに連日叩かれている若者についてはどうだろう?
勿論、中には自覚なくノーマスクで街を出歩き、大声で話し、酒を飲んで騒ぐ馬鹿者も一部居るには居る。だが、それは若者に限らず街中を見れば、全世代に渡って言える事である。幼稚園、小学校低学年の児童も学校や遠足に行けずかわいそうだが、小学校高学年から中学、高校、大学の学生や未成人勤労者はどうだろう?運動会も、文化祭も、修学旅行も、クラブ活動も、謝恩会も、卒業旅行も、歓迎会も、成人式も奪われ、人生でもっとも多感で輝きを放つかけがえのない青春時代の一コマや生涯の友との出会いの機会が失われ、彼らの人生で今後これらの穴埋めをする何かがあるのだろうか?

そうすると、青春の一コマより命の方が大事論が必ず出て来るのだが、コロナ政策を極論まで行ったら、今後コロナよりリスクの高い未知のウイルスが出る度、現在より厳しい隔離政策がとられ、それこそ栄養は最低限自動配送するから個別無菌室から出ないようにというマンガみたいな事になりかねない。それで果たして人として生きていると胸を張って言えるのだろうか?

コロナの変異についてもそう。
コロナが変異して感染率や毒性が高まるリスクも勿論あると思うが、一般的には変異して感染率が上がれば上がる程、宿主を殺すとコロナも生きられない為に逆に毒性は弱まるとの説もある。コロナだって生命体なのだから、どっこい逞しく生きていくのである。決して勝手に消えて無くなったりはしない。このようなウイルスはコロナだけなのか?人間は全て知った体でいるが、恐らくコロナ以上の未知のウイルスだって、何万といるし、これからも変異を続けながら次々誕生する。

そんな自然界、未知のウイルスの中を生きて来たのが人類であり、適者生存で生き残って来たのが現在の我々である。人間は高度に進化し、医学と政治と情報伝達技術が発達した為に、本来生物が持つべき生命力や自然との共生能力を失い、生物としての死生観を忘れ、目の前のミクロな事象に囚われ、死をタブー視し過ぎる余り、人間は、種としてはむしろ衰退に向かっているのではないか?

昨今の世界的なコロナ政策を見ていて、そう思わざるを得ない。

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