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まともと狂気のまにまをたゆたう.舟に。

「いいやつ」って言葉を、信頼するユーモアのある友だちが使ってる。
あの子めっちゃいいやつ。
これで通用する共通認識。
自分の価値観となんとなく合う、そして出逢ってしょっぱなから
自分の中にグッと入ってくる感覚のようなもの。
あぁこの人も「いいやつ」だ、って感覚で思う。
そこには外れがなくって、それは信頼や好きやこの人のためなら、なんか
動けたり言葉を素直に聞けたりする原動力に繋がる。

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その「いいやつ」の部類にわたしの中で入る人に、「まともに生きる」って
話をされる。
わたしのまともじゃない仲間うちのことを話しながら。
「あんたはあそことは一線は引いてるが、まともにも所属せんタイプじゃ」って言われる。
そう、そんなわかりますか。
正直ちょっとびっくりした。
さすが自分が「いいやつ」と認めただけある。
そんな透けて見えてる、いや透けて見ることのできる人なんだろうな。


まともとは何か。
社会常識、社会通念、子育ての当たり前、将来への(不安からくる)蓄えと
見通し。
こんなことを、まぁこんな40歳過ぎたわたしに言ってくれる人も稀である。
ありがたく受けとる。

でもきっとほんとうのわたしは「狂気」さえやりたいのだ。

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人が狂うとは何か。
変な人、変わった人、おかしな人、変人、変態、自由人。
こんな枠に、わたしは足を突っ込んでいる。
そんなことは自覚している。
が、病んではいない。
そして意識的に狂うこともしている。
それは、よく言えば :能力の開花:である。
変、であり続ける。
が、義理人情には乗っかる。
だから、いいやつと思った人にはうまく合わせる。
もちろん狂ったとこは見せない。
能力を隠して見せる。
コントロールする。

自然の中にいると、狂うことが容易だと思う。
樹々に話しかけ、エネルギーを循環させ、ある意味の開眼をする。
すると勝手にいろんなことが起きる。
それは叫びだったり、歌だった時はまだいいけど。
ときに発狂もやってきて。
完全に何かにのっとられ一体になる。
それはわたしではない。
それはあなたでもない。
それは自然である、のかも知れない。

その発狂はそのときの今に、とても正しく発生する。
場のエネルギー、人のエネルギー、命のエネルギー。
その波に乗ることが好きだ。
それはひとりのときにたいがいやってくる。

それはいいとして。

厄介なのはひとりじゃないときにくる発狂。
気持ち悪くなり、キーンと似た音に合わせて
やってくる。
呼吸を整えても、微笑んでみても、ボソボソと言霊を出してみても。
圧倒的なエネルギーでそれはやってくる。
涙がぎゅーっと出てくる。
いや、ここじゃぁさ、あかんやろ。
どうしよも無くなるから、その場を立ち去らないと、とてもあぶないわたしが発露してしまう。
それを逃すこともできず、抑えることに手いっぱい。

じゃあさ、そこにいなきゃいいんじゃない?
その通り。
でもそれじゃあまりに、狂気過ぎて。
コントロール効いてない。
つまらない狂人には、まだなりきれない。
つまりは本物の狂人ではない。
だからどうにか、抑え込む。
そしてひとりになって、思う存分狂う。

窓を開け空気に触れ。
思いっきり歌う。
いいいいいいーーーー!とか
ウォーーーーんとか声を出しながら。
泣く。
最後はもうありがとうしかなくなる。

そんなことを、日常たまにやっている。
それは稀なので。
後のわたしは、にこにことうれしそうに人とコミュニケーションしたりする。
ただのいいやつ になる。

まともにはなりきれない。
抑圧がひどいから。
矛盾とズレ込みに耐えられるほど、鈍感でいられないだろう。
抑圧をほどきながら。

狂気にはなりきれない。
ずっと狂気であり、それを誰にでも見せられる人は、ある意味の本物だ。
それはすごいことだと思う。
わたしには、きっと到達しなくていい場、なんだ。

とかく笑っていればたいがいはいい気分。
しあわせそうに、いられる。
このしあわせそうを守るために、わたしは今日もまにまの舟に乗るだろう。

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