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「生きづらい」私へ。

ずっと自分が抱える「生きづらさ」について発信したいと思っていた。

うまく言葉に出来る自信は全くないし、綺麗な形にしようとすると、完璧主義な私は書けなくなってしまうから、適当に。そしてひっそりと。ただ、毎日1行でもいいから、続けられるといいな~とは思ってる。

「生きづらさ」ってみんな感じるのかな。

私は毎日、とても「生きづらい」です。

数年前に本屋さんで発達障害の方のエッセイをぱらぱらと立ち読みしていたんだけど、著者の方が、「知り合いに「生きづらくて…」と言ったら「生きづらい、って何…?」と言われて、あ、そうか、この世には「生きづらい」という感覚を理解出来ない人がいるんだ、と衝撃を受けた。」という経験が書かれていて。

それを読んだ私もまさに衝撃だった。そっか、「生きづらい」が理解出来ない人がいるんだ、って。

それは別に、生きづらさを理解出来ない人を楽に生きてていいね、と思っているわけではなくて。多分生きづらさがわからない人だって、私たちから見たら同じくらい、もしかしたら私たち以上に生きづらいと感じるであろう経験をしていると思う。それを生きづらいと感じるか感じないか、の認知の問題だから。

ただ同時に、私はこっち側の人間なんだ、「生きずらい」を理解出来てしまう側の人間なんだ、と確信した瞬間でもあったかもしれない。

少し批判されるかもしれないけど、私はこのnoteを「中立的な視点」じゃなくて、「生きづらい側の視点」で書いていきたいと思っているから言うけれど、生きづらさを感じない人は、私達に「みんなそうだよ」と言う。言われるたびに思う「みんなそうだよ」という言葉に何の意味があるんだろうって。

「みんなそう」だったら何なの?「みんなそう」だから我慢しなきゃいけないの?「みんなそう」だから、それを「生きづらい」なんて言っちゃいけないの?みんなそうなんだから生きづらいという言葉に逃げるな。甘えるな。と言われているように感じてしまう。私だけかな。

少なくとも私は自分の感じている「生きづらさ」を、「そっか、『みんなそう』なんだ。じゃあ頑張るしかないな。」とは思えなかった。思えるものなら思いたい。そう思えないから「生きづらい」。


そして今、生きづらい。今が一番、生きづらい。笑

毎日自分でもなんでこんなに大変なんだろうと不思議なくらい、生きることに必死。1日の終わりに、今日のなんとか生き抜いたぞ…!と。

昔は、多分、若さや今より責任を伴わない環境のおかげで影を潜めていた私の中の「生きづらさ」が、社会に出るようになって、将来への不安、プライド、こだわり、人間関係の変化…色んなものと混ざり合って、気づかぬうちに大きく大きく育って。

そんな、大きく育った「生きづらさ」と戦いながら生きてきてわかったのは、この子は私の一部だから、これからも共に、ずっと生きていかなきゃいけない、ということ。

本当は「戦い」というと「生きづらさ」が敵になってしまうから、あまり良くない表現かなと思ったのだけれど、正直まだ私にとって「生きづらさ」は「敵」だ。それくらい毎日手こずっているし、扱い方がまだわからない。

「生きづらさ」を「敵」から「戦友」にしていけるように。その過程を、ここに綴っていきたいと思う。時間はかかるかもしれないし、かなり大変は道のりだとは思うけれど、やるしかないから。だって、どんなに生きづらい!!無理!!って叫んだって、泣き言言ったって、これからも生きていかなきゃいけないんだから。自分の足で、しっかりと立っていかなきゃ、誰も助けてくれないから。

だから工夫していこう。働き方を、心の持ち方を、人間関係を、生活の仕方を。面倒くさいは理由にせず。

共に生きていく覚悟は出来ているから。




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