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秩父札所の歴史と妙見信仰と補陀落山
秩父札所は、百観音霊場と言われるなかでも一番成立が遅い霊場です。
ざっくり言って西国三十三観音霊場は平安時代に、坂東三十三観音霊場に鎌倉時代に、そして秩父観音霊場は室町時代にできたと言われています。
秩父札所の縁起としては、1234年という覚えやすい年にできたと言われていますが、歴史的、文献が残っているのでは室町時代頃だと言われています。
今回は札所の紹介というよりは小難しい歴史の話を先に書いておこうと思います。
写真のうち、いくつかは横瀬町の横瀬歴史民俗博物館で許可をいただいて撮影しました。
秩父札所の始まり
一般に秩父観音霊場の始まりは、先にも書いたように1234年、文暦元年と言われて、円教寺の性空上人など13権者が定めたとされています。十三権者については、秩父札所23番の音楽寺の近くにある石仏が有名です。
十三権者については音楽寺を紹介する時に再度書きたいと思っています。
観音信仰は江戸時代、民衆に人気となりました。なかでも秩父は江戸からも近くまた、江戸での出開帳などもあり観音霊場として人気があったのです。
『秩父観音霊験記』には一流の浮世絵師により描かれた挿絵と文字通り霊験の記録があります。木版画で描かれたものです。
また、千葉においては「男は伊勢詣り、女は秩父巡礼」という風習があったということです。特に40歳以上の女性の人気を集めたようです。
性空上人、熊野権現が大きな役割
札所13番の経堂にある十三権者の像。
先程も書いたように霊験とかではなく、文献として残っているのは、室町時代に秩父観音霊場が成立したと考えられています。
文献とは『長享2年秩父観音札所番付』です。そこには性空上人の名前が載っています。性空上人が地獄の罪人を助け、閻魔大王の返礼によって、秩父を巡礼、坂東、西国を巡礼したとされます。
その時に熊野権現や伊勢の神様が巡礼を守ったと書かれているのです。
性空上人は姫路市にある円教寺、当寺は播磨国のお寺を創建した僧と言われてます。
当時の円教寺は播磨国では有名なお寺で、「西の叡山」と呼ばれるほどの規模だったそうです。
当時の秩父にいた丹党の武士たちは播磨国との往来があり、この円教寺の観音信仰を秩父にもたらしたと言われています。写し霊場というのか、西国観音霊場にならって秩父に三十三の札所を設けたのではと考えられています。
またこの頃の武士たちは熊野信仰の影響も強くあり、熊野信仰は観音信仰との関連が強いとされています。熊野那智大社の隣には西国三十三観音霊場の1番札所である青岸渡寺があります。
那智大社は観音菩薩がいる補陀洛山の東門という信仰もあったそうで、熊野と観音信仰は密接な関係があり、熊野信仰とともに観音信仰も広がったと考えられています。
秩父観音霊場を決めたとされる十三権者のなかでも熊野大権現が主導的な役割をしていたのは、秩父にはすでに熊野信仰が基盤にあったと考えられてられていたからです。その素地があったために観音信仰、さらには札所巡礼にもつながっていったと考えられます。
観音信仰と三十三
熊野信仰では補陀落渡海が知られ、補陀洛山寺がありますが、それは補陀洛山、すなわち南方の海上には観音様がいる補陀洛山があるとされ、秩父においては補陀洛山が武甲山と考えられているのです。
補陀洛山が武甲山であり、秩父妙見宮である秩父神社となると、そこを拠点として札所を決めたというのも理解できます。
横瀬町(芦ヶ久保駅近く)にある茂林寺の舟乗り観音
補陀落へ導くとされるお手引観音とも言われる。
西国三十三観音霊場にしろ、坂東三十三観音霊場にしろ、三十三というのは、観音様が三十三の姿に变化できるからです。
秩父札所もそもそもは、三十三ヶ所の札所でしたが、日本百観音霊場として区切りがよかったのでしょう。1ヶ寺加わり、三十四霊場となりました。
仏教では三という数を使うことが多く、三密もコロナが初めではなく、三密加持の三密として密教で言われてきていたのです。
霊場の数も三がいいとされたので、西国、坂東、秩父の三霊場が選ばれて、百ヶ寺の構成になったのでしょう。地方にはその地域の三十三霊場が設けられているところもありますが、関東における観音信仰の中心的存在だった秩父は地方の一霊場というよりは、日本百観音のひとつに入るほどだったというわけです。
観音信仰は鎌倉時代は武士たちの間で広がったと言われていますが、江戸時代になると、庶民にも広がります。
とりわけ秩父は江戸から関所を越える必要もなかったために人気の霊場だったようです。
秩父神社の妙見宮の古い額
秩父神社は秩父妙見宮といわれ、妙見様を祀ります。妙見様は妙見菩薩として神仏習合時代に信仰の対象となっていました。
神仏習合なので、神社と寺院の別はなく、秩父札所は秩父神社の回りに多く存在していました。
江戸時代に今と同じ番付に変わった
『長享2年秩父観音札所番付』、いわゆる長享番付には三十三ヶ所の霊場を回る順番が書いています。
現在は江戸時代の巡礼道によって、東秩父方面から入り、札所1番の四萬部寺に行くという江戸からの巡礼に沿った順番になっています。
しかし、現在の札所の番号とは異なり(現在の番付は江戸からのもの)、長享番付には、まずは妙見菩薩が祀られている宮地の定林寺から始まるとなっています。先程も書いたように秩父神社を中心に札所多くは構成されています。
その後、秩父妙見宮の地にある2番蔵福寺に行って荒川を中心に南を回り、13番の西光寺に戻るというルートです。
次に小鹿坂から西秩父方面赤平川を巡り、神門寺に戻るというルート。
そして現在の常泉寺から常楽寺に戻るというルート。
最後に明智寺から武甲山麓の横瀬を回るというルート。やはり最後のルートは補陀洛山と見られていた武甲山の近くを巡るルートとなっていたようです。
その後に結願の水潜寺となります。最後だけ場所が遠いので問題が残るそうですが、大宮郷の人の為に作られたと言われています。
なお、最後に1ヶ寺足されて34霊場となったので、最後の最後に来るのは真福寺となります(長享番付には三十三番の水潜寺までとなっています)。
百観音が成立してから1ヶ寺加わり、三十四ヶ所となりました。それは江戸時代初めのころだと考えられています。江戸時代中期になると案内書、縁起などには三十四観音として書かれています。
長享番付の時と違い、江戸時代に番付が変わり、今と同じ番付になりました。元禄14年、1701年の銘がある巡礼石には現在の番付で書かれているそうです。
まとめ
秩父観音霊場は現在の秩父市全体に広がるのではなく、地域の偏りがあります。武甲山の周辺に偏りがあります。中には、秩父札所からは武甲山を眺めることができる場所が選ばれているという指摘もあるそうです。
妙見信仰は関東において秩父と千葉が知られています。鎌倉時代の秩父の丹党の中村氏は秩父と播磨国との往来もあり、秩父神社には妙見菩薩を合祀していました。
鎌倉時代の秩父の武士たちは熊野権現を信仰し、熊野権現と深い関係のある観音信仰と結びついたと言われています。
そこで札所を作ることになったのではないかということです。札所の番付、順番も成立当時は妙見宮秩父神社(鎌倉時代に秩父神社に妙見宮が合祀)と関係があると言われています。
観音様のいる補陀洛山は武甲山と見なされ、秩父妙見宮である秩父神社を中心に札所が整えられ、先に妙見菩薩が祀られている定林寺がスタートと成りました。
巡礼の最後には武甲山の回りを巡り、結願が水潜寺となります。
水潜寺で、身を清めてから現世に戻るのです。
秩父観音霊場においては熊野信仰と観音信仰の関連、妙見菩薩(秩父妙見宮)、武甲山を補陀洛山とみることなどがキーポイントとなります。
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