見出し画像

札所25番久昌寺から影森駅から帰った日26番への江戸古道を通って

前回は、歩き巡礼に人気の江戸巡礼古道(長尾根みちからの久那みち)について書きました。

札所24番の裏側、白山神社側から入るルートは1回目の時に通ったので、県道のほうから入るルートを使いました。

参拝の後は、久那みちを通ったことを書きました。

久那みちの最後は久那小学校の前(道案内の道標石あり)を通って札所25番へ行きます。

札所25番からは、札所26番に向かいます。

ですが、今回は途中の影森駅まで、としました。

久那小学校前にも道標石あり

私は長尾根みちと久那みちを通しで歩いたわけではありませんが、ここまでは遠かった。

通しで歩く人はすごいわ。それが普通なのでしょうが。

久那小学校の西側の道標石は、「右 二十五番 左 二十四番」と書いてあるらしいのですが、右二十五番はたしかに読めました。

御手判寺の仁王門

札所25番に付きますと、御手判寺の額が架かっている山門が見えます。

桜の頃はこの山門前が桜できれいなのですよ。桜やカタクリ、そして蓮花の時の記事はこちらに↓↓


手前にはお地蔵様です。

御手判寺は、閻魔大王が授けた御手判があるからです。

私は1回目の巡礼で、すぐさま購入しました!

秩父の十三権者の性空上人が閻魔大王の王宮で法華経を読んだとき、閻魔大王からお礼として石の証文と石の手判を預かったそうです。

札所25番を十三権者が通った時、25の菩薩のお迎えを受けて、この授かった石の御手判を安置したそうです。

仁王門を通ってもいいのですが、脇の道を通りました。


私はブラタモリをみていたわけではありませんが、その後に出た書籍をみますと、こちらの札所25番の観音堂の横の崖についても書いてありました。

久昌寺の観音院は高さ8メートルの岩の脇に立っているとなっていました。

崖の脇に立つ観音堂

観音堂への途中の道です。

それにしても首から上がなくなった石仏やら、壊れた石などが転がっています。これは神仏分離令の頃のことなのかしら。それとも単に、壊れたから於いてあるとか?


こちらが札所25番、久昌寺の観音堂です。

御手判寺と閻魔大王の文字も見えます。

横の柱にも崩し字でよく読めないのですが、ゑんま大王だとか御手判とか、上人納めとか文字が見えるので、先程書いたように閻魔大王から預かった御手判をここに納めたということでしょうね。

観音堂の脇には小さなお堂(地蔵堂)がありまして、閻魔大王ならぬ三途婆像が安置されているようです。

その後ろが、ブラタモリの書籍にも書いてあった観音堂の脇にある崖です。

角礫質砂岩の崖です。

これが札所19番にある岩盤と同じものだとは。。。

南の断層から流れてきたものとは思えないですよね。

色もこんな色だったのか。

それにしても今から1800万年前には山地が陥没して海になり、古秩父湾があったとは、今の山、山から想像できません。

長い年月かけて秩父盆地ができたわけですね。

観音堂の裏手から角礫岩砂岩を見てみましょう。

岩に詳しくないので、これまたわかりませんが。

触ってみたらわかるかな。

御朱印は弁天池のほうへ行きます。なにやら書いてあった石碑です。

この弁天池は、溜池なのだそうです。

冬は氷のスケートリンク状態の弁天池は実は溜池

見事な氷です。これが12月ですから、1月、2月はどうなっているのか。

カチンカチンでしょう。私は今まで、春や夏の睡蓮、蓮の花の時期に来たことがあるので、あまりにも光景が違っていてびっくりしました。

この弁天池を通って、御朱印をいただきに寺務所に行きます。

本堂の隣に寺務所があります。

弁天池の中央近く、本堂の先には弁天堂もあります。

弁天様と水は切っても切れない縁なので、溜池もあるのでしょうね。

今まで気が付かなかったですが、弁天堂の彫刻は色鮮やかですね。

久昌寺砦は今度行ってみたい

氷に凍っている弁天池と、その奥に見える久昌寺砦です。

そこまで行く斜面がカタクリの花で有名な場所です。

今は何もみえないこの池が睡蓮や蓮でいっぱいになるのです。

まわりも草がいっぱいですし。

向かって右手のほうの池を写してみます。

こちらの池のまわりには、紫陽花がいっぱいに咲くのです。

カタクリの花のまだの時の久昌寺砦への道

久昌寺砦は、今くらいの時期のほうが雑草も少なくていいだろうと思ったのですが、もう夕方だったので行くのはやめました。

またの機会に登りましょう。行くとしたら昼間でしょうね。

ここの斜面が、3月下旬から4月上旬には、カタクリの花でいっぱいになります。

武甲山を入れて写真を撮りました。

やはり秩父は、秩父札所めぐりは武甲山がないといけませんねぇ。

脇には小川のようになっていて、弁天池から水が流れるようになっているみたいでした。そこに架かっている橋を直している最中のようです。

稲荷社にも立ち寄ってから江戸巡礼古道へ

橋のところから稲荷社が見えたので、ついでに参拝しました。

お寺と稲荷社はセットであること多いですね。

「正一位稲荷大明神」の赤い奉納旗が見えます。

その稲荷社から観音堂を写してみました。

やはり崖は19番龍石寺の岩と同じなのでしょうね。

色も形状も独特な感じがしました。

歩いてしばらくすると、心求、はまの石がみえました。

「みぎ二十五番」となっているらしいのですが、これまたかなり判読不能です。

そのうえ、説明の立て札まで倒れてしまっていました。

久那小学校近くの交差点にあった馬頭尊の石です。交差点からすぐに右の小路に入ります。そこから畑の多い住宅地を通っていきます。

歩いている方向としては、浦山口駅ではなく、影森駅を目指します。

本来なら久那橋を渡って、浦山口駅を使ったほうが秩父鉄道で帰る人は近いです。

しかし、江戸巡礼古道なので、柳大橋に向かっていきます。地図をみてもらうとわかりますが、柳大橋への道を歩いています。


久那橋のほうは、国道140号があるからなのか、車の往来があるのに対して、こちらは柳大橋へ向かう車は少ないようです。

道端に道標と道標石がありました。当然ながら、私は二十六番のほうに向かって歩きます。

遠くに武甲山が見えて絵になりますね。

県道を歩いたが途中で巡礼は旧道に分かれるらしい

道自体はわかりやすいですし、ところどころ道標石があります。

そのそばには矢印が書かれた道案内の札もあります。

右二十六番の石と、判別しにくいので、札所26番と25番を指し示す札が一緒に置いてありました。

本来は江戸巡礼古道は、この舗装された道から少し離れる部分があるそうです。

赤い鳥居の100メートル先で分かれるのだとか、よくわからなかったし、夕方で日が暮れるのでわかる道を歩きました。


またもや判別不能の石と、道祖神の石です。

こちらが「みぎ二十六番」、「ひだり二十六番」と書かれている2つの道標石のようです。右も左も26番という矛盾した石。

おそらく下がコンクリートで固められていることから、ほかから移動してきた石ではないか、とのことらしいです。写真もあまりなんて書いてあるか読めませんよね。

そばには「巡礼道」25番と26番とそれぞれ矢印が書いてあるので間違えることはありませんが。

柳大橋ではなく渡し舟を使って荒川を渡った江戸時代

こちらが柳大橋です。

この手前に旧道からの道案内として草のところに、道標石があるそうですが、もちろん私はわからずです。

旧道からは、柳大橋の下あたりをくぐって、荒川の河原に降りて渡し舟を使っていたみたいです。

今は見てもわかるように、新しい橋です。

渡し舟の場所に、大きな木があったそうなのですが、今はどれだかもわかりません。

ここを渡し舟を使って渡っていたのでしょう。

それにしても江戸時代の人は渡し舟使ったりしているわりに歩くのが早いのか、札所もたくさん回っているのですよね。

夜明けととも歩いていたのかな。

ここの地図をみてもらうとわかりますが、柳大橋からは、直線コースではなく、ヘアピンカーブのように、右に行ってから左に行くという大回りの道になります。


車ならなんてことない道ですが、この坂道がけっこうきついです。

ここの道を通るのは、橋の工事の人だけではないかと思うくらいです。

そのうえ、日が暮れてきて心細いうえ、かなり木々が茂った暗い道でした。

電灯はついていますが、できれば昼間の日の高い時に来たいものです。

道はほかにないので、間違えることはありません。

目指すは影森小学校の裏手です。

ヘアピンカーブを登りきったら地蔵尊の石碑と道標石

ヘアピンカーブの道を歩いて登りきったところに、工場みたいな場所があってその手前に、地蔵尊の石碑がありました。地蔵大菩薩と書かれているようです。

下から歩いてくるとコンクリートの塀で囲まれてわかりにくいですが、その先に、二十六番の道標石があるので、振り返るとわかります。

この地蔵尊の石碑は「一本木地蔵」と呼ばれているものだと思います。

こちらは、裏に立て札もあるのでわかるかと思う二十六番への道標石です。

ここまでがけっこう心細い(特に日が暮れてきてから)道でした。

秩父は車の往来が激しい道が多い印象なのですが、この道は柳大橋があまり使われていないのか、寂しい感じがする道でした。

ここを進んでいくと、すぐに国道140号ですからすぐに車の往来がある道へと出ます。

本来は、影森小学校の裏手から旧道を通り、秩父鉄道の踏切を渡って26番円融寺のほうへと行きますが、今回は暗くなってきたので、ここで打留めです。

影森小学校の裏にも「ひだり二十六番」の道標石があるそうなのですが、これも確認しないで、影森駅に行きました。

駅に着く前くらいにはすでに日が暮れて真っ暗でしたから。

この日は、影森駅から帰りましたけど、別の日に札所26番に行ってることは以前に、書きました。

これで、札所25番から26番につながります。

江戸時代の巡礼古道とは少し異なる道だったみたいですけど。

ついでに。

その後、久昌寺に行った時、久昌寺から久那橋へ向かう途中、八幡神社の手前の向かう手前の四つ角のところに、石碑がずらり並んでいたので写真の撮っておきました。

二十二夜塔、子待塔やら、5基ほどあったかな。

こういうのが巡礼道以外にもあって、それを発見しながら歩くのが「秩父の散歩」の楽しみなのですよね。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?