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もうすぐ一年になる。

記録することには意味がある。記憶することには意味がある。だから私はやはり書くのだろう。

私は偏った記憶力の持ち主だ。昔聞いた断片的な話、特に数字をはじめとした文字列を鮮明に覚えている一方で、高校を卒業してから十年と経っていないのに、今交流のある数人を除けば、もう誰の顔も見つけ出すことはできないだろう。

弱視のためかもしれない。ASDに併発することのあるといわれる相貌失認のためかもしれない。相貌失認に関しては、疑いの段階だけれど、可能性はかなり高いと思っている。

まあ、私は相貌失認でも弱視でも、顔がわからない原因なんて、どちらでもいい。見分けがつきにくいという事実がある。それだけで、もう十分。

私は日常を”こなして”しまう悪癖がある。noteで書いている素敵な人達、例えばいちとせしをりさんみたいに、日常の一場面を描き出すのがとても苦手だ。あんな風になれたらな、と思ったことがある。向いていないと知っている。

日常なんてルーティンでしょう、こなすものでしょう、それだけでしょう、と冷酷な私が言う。私は、どこまでも、冷酷で、鈍感だった。

自分が一番よくわかっている。マイノリティに生まれたからマイノリティの視点を持っただけだ、と。自分がその立場にならなければ他人の痛みなど想像もできないのだと。

共感できなくたって、ロジカルにマイノリティを描き出すこともできる。例えばデータを分析できれば、その意味を知ることができる。社会学の視点を持てば、社会が忘れ去った人達に気づくことができる。

分断を止めるのは知だと思う。共感ではなくて、知だ。それなのに、私はあまり賢くないし、多くのことに時間を割けない。

行動力があって、賢い人をすごいなと思う。

ポジティブなことを書き続けられる人をすごいなと思う。

同時に、戦い方が違うのだと知る。私は、持っている武器が書くことしかないから。

これを磨いていくしか、道はない。

そんなことを思って書き始めて、初めてお金をもらって書いたのが去年の夏。そこからめまぐるしくいろんなことが動いていった。

そのなかで、いろんなことがあった。過去の私が見たら、きっとこれを迷走と呼ぶのだろう。だったらあなたが正解を教えてよ。

それでも、何とかやってきた。希望と呼べるものは見えつつある。動いたことに意味はあるんだよ。

愛がわからないと書いた。愛はわからないのに、私には生えていない感覚なのに、皆にはあるらしいから、私は意識してしまった。

書いてきて、愛のわからない自分も、普通ではないけど、これもありだと思えるようになった。愛がわからなくてもいい。いつかわかるときが来なくてもいい。


執筆のための資料代にさせていただきます。