アルビノフェス2019に行ってきた”感想”

2019年6月1日、「アルビノフェス2019」というイベントが御茶ノ水ワテラスコモンホールで開かれた。

開催決定から開催まで日が短いことなどから否定的な意見もちらほら聞かれたこのイベントに、私は足を運んでみた。友人が出るから、そして何も見ずに批判するのもどうかと思ったからだ。

かくいう私も、否定的な意見の持ち主であるしそれはアルビノフェスに一人の観客として参加した今でも変わらない。

ただ今回は感想と意見を分けることにした。この二つは分けるべきだからだ。

理由は二つある。こういう活動である以上個人の感じたことを無視してはいけないからというのと、こういう活動であるからこそ理性的にアルビノの待遇改善や啓発に繋がることを考えていく必要があるからだ

こういう風に見られたいわけじゃない

歌やファッションショー、演奏や本や洋裁の販売など対外的に表現活動をしているアルビノ当事者が出演するフェスだった。

私は廣瀬真由子さんの歌をめあてに会場に足を運んだ。声楽というものを知らなかった私はミントグリーンのドレスに身を包んだ廣瀬さんの歌声に圧倒された。

他の人達も皆それぞれに伝えたいものがあって、魅せたいものがあって、ステージに立っていることが伝わってきた。発表そのものは楽しませてもらった。

けれど、思うのだ。"こんな風には見られたくない"と。

アルビノはどうしたって私と地続きなのである。アルビノが、"演奏などをする才能や個性がある人"と定義されてしまったら、そう世間に見られてしまったら私はきつい側の人間だ。私の手元には書くことしか残っていないのだから。ステージに出て何かしたいと思うことはないのだから。

そしてこれはあの夏の古傷にも繋がってくるのだ。24時間TVの"頑張る障害者"像を観て、それを消費した母親の一言に、それに傷つけられたあの日の自分。そんなことを思い出してはざわざわする。

それがあるからこそ、アルビノフェスに出ていたアルビノ当事者が全てだと思わないでほしい。けれど、そう思われる危険はある。

ricoさんがそれに関していいことを言ってくれたので、嬉しくてお礼を言いに行った。

皆出られる人ばかりじゃない。出なきゃいけないということでもない。

アルビノは"何か才能や個性のある魅力ある人"ではない。普通に日常を生きている、人間だ

愉しめるかよという八つ当たりにも似た怒り

完全に八つ当たりである。先にそう断っておこう。

私、雁屋の人生は現在うまくいっていない。

フェスが開催決定し動きが起き始めた頃などは転職活動を試みては、失敗する日々を送っていた。その上、数社から「やはり視力に不安がある」と言われお断りされた(障害者差別解消法に違反しているがそういうところに行ったところでろくな配慮も受けられないのは聞くまでもない)。その数社はアルビノのせいで、お断りされたのである。

転職活動を諦め、大学院を目指しながら、書く仕事も目指して動いているのが現状だ。

収入は不安定、将来も不確定と不安にさいなまれていて、ささくれ立っていることは否定しない。

そんなところで、アルビノを愉しむとメッセージを出されたところで、"愉しめるかよ"という暗い気持ちがわいてくるのは当然とも言えた。この暗い気持ちはなかなか消え去ってくれない。多分状況が変わらない限り、それとつきあわなければならないのだろう。これに支配されることを避けたくて書いているところもある。

アルビノ、そんないいものじゃないぞ。現代社会を生きる上では足枷になっている。私の現状はアルビノだけが原因でうまくいっていないわけではないが、アルビノでなければ幾分かましだったことは間違いない。少なくとも、視力で断られることはなかっただろう。あからさまに、「(運転)免許、ないんだね」と言われて、「落ちたな」と思い案の定落ちたことも、アルビノでなければ起きなかったことだ。もしかしたら言われていないだけで、見た目でも落とされているのかもしれないと疑ってしまう現状を、生きている。

こんな社会でいいわけがないし、変わっていくべきだということもわかっている。けれどそんなすぐに変わるものでもない。閉塞感に満ちてすらいる。そして何かをやらねばならない、やるべきだという焦りだけがある。国のトップがバリアフリーを「大きなミス」だなんていう国は、終わっている。人権後進国と言われても、言い返すこともできない。

そんな時に、愉しむ?

無理に決まっている。愉しむ余裕なんて今の私にはない。ぐつぐつとお湯が沸騰するように怒りが存在感を増していった。自分の怒りで火傷しそうだった。それでもこの暗くて熱い気持ちは消えてくれないのだ。

一時期などはアルビノフェスの動きがある度にいらいらするので情報を避けていたくらいである。怒りに支配されている時期があったことも否定はしない。アルビノを愉しむなんて、どうやったら、どうしたら、そんな境地に至れるのか、今も当時も理解できないでいる。私の現状が変われば少しはわかるのかもしれない。けれどギリギリの今は、どうしても無理だ。この文章も攻撃的にならないように、事実を淡々と書くように心がけて入るけど、もしかしたらひどく攻撃的に見えるかもしれない。

アルビノをきっかけに繋がる

散々否定的な感想を書いたが、アルビノフェスに関して一つ、いいなと思ったことがある。

それは、アルビノフェスを通して、”繋がる”ことができるという点だ。

今までそれぞれに活動していたアルビノ当事者やその関係者達がアルビノフェスをきっかけに出会い、繋がり、今後も一緒に何かをしたりする。そんな繋がりのきっかけになる場だと思ったのだ。

何しろアルビノはマイノリティ(少数者)と言われるだけあって、少ない。約2万人に1人、日本国内では5,000~6,000人いると言われている(参考:難病情報センター)。日本の人口からすると、アルビノがマイノリティなのがよくわかるだろう。

そんな私達は、周りにアルビノ当事者のいない環境に置かれがちである。元々少ないのだから仕方ないと言えば仕方ないが、その状況から孤独を感じる人もいるだろう。そんな状況において、「一人じゃない」と示してくれるアルビノフェスは一つの光になったのかもしれない


以上が私の"感想"である。次回はアルビノフェスに対する意見を書いていく。

執筆のための資料代にさせていただきます。