ノート用梅

アルビノを美しいと言うことについて雁屋の結論。

あくまで雁屋の結論であることを強調して、書いていきたい。

雁屋はアルビノで物書きを名乗れるかはわからないけど、とにかく字を書いて表現することにしか適性がない可能性が高い、一人の人間である。

雁屋は自分の気持ちしかわからない。

ネットの診断とかやると”ひどく思いやりがないですね”と言われるし、思いやりより理性で生きている自覚はある。
理性大事。
あと自分の気持ちは何より大事。

もしかしたら自分の気持ちも正確に把握できていないかもしれない。

そんなのできている人の方が珍しいのだろうか。

まあ自分が何を考えているか整理する意味も含めて、”美しい”と言われることについて考えてみよう。

美しいと言われるのは、

別に嫌じゃない。

それが私の結論だった。

「白くてかわいい」と祖父母に言われ、色が白いことを肯定されて育った私は、アルビノであること自体をきれいとか美しいとか言われることに嫌悪感はない。

ありがとうございますって受け取っていた。

でも、大人になって、いろんなことを経て、素直に嬉しかった褒め言葉の一部が、「ん?」ってなることがある。

「きれいだ」って言われるだけなら普通に嬉しいけど、「きれいで羨ましい」って言われると、「それだけで済まないんですけど」ってもやっとする。それだけでは済まない現実で苦労している時は特にそうだ。

自分でもミルクティーブラウンの髪や白い肌や緑のひまわりが咲いている瞳が好きだった。

一点の曇りもなく、好きだったのは、子どもの頃までだけど。

でもたしかに好きだった。

成長すればわかってくることがある。

目が悪いのも、日焼け止めを塗らなきゃいけないのも、眩しいのも、車の免許が取れないのも(雁屋は免許が欲しくてたまらないので何度でも書く)、全部、アルビノのせいなんだってことがわかってくる

アルビノを理由にアルバイトを断られたりすると、「いいことばっかじゃないな、アルビノも」って気分になる。

アルビノのせいだけじゃなくて、社会の無理解と想像力の欠如のせいでも、苦労させられる。

それもひっくるめてわかった上で、「きれいでいいね」って言ってんのか、って好戦的になりたくなる時もある。

結局はその時の私の状況なんだろう。

「きれいだね」を何の疑問もなく受け取っていた子どもの頃には戻れない。

「きれいでいいね(羨ましい)」と言われると羨ましいのはこっちなんですけど、という気分にもなる。

羨ましいのはこっちだ。

だって、視力が低くていいことなんか何もない。就職は大変だし、運転免許は取れないし、いつだって、視力欲しいなって思っている。

勿論これは私雁屋の話なので、アルビノの人が皆そうってわけじゃない。

それに雁屋だって、羨ましいと言われて、いいでしょうって誇らしくなることも、ある。

それは本当にその時の状況次第なのだ。

うまくいっている時には羨ましいと言われて喜ぶし、うまくいってない時には「だったらこの苦労も分けてやるよ」って思う。思ってしまう。

私もいろんな気分の時があるから、「きれいだね」って言われるのはだいたい嬉しいけど、「羨ましい」とか言われると、状況によっては喜べなかったりする。

じゃあきれいって言っちゃいけないのか、っていうとそうじゃなくて、それは関係性とか言い方次第なのだろう。

きれいっていう文脈、シーンとかそういうものが違えば、どう受け取るかも変わってくる。

勿論その人のこれまでの経緯によっても、変わってくる。

きれいって言っていい、いけない、というどちらかが正解ということはない。

考え続ける他ないのだ。

目の前の人にきれいって言っていいかどうか、それができる関係性か、とかそういうことを。私は考えるの苦手で一律の解答を求めてしまいがちだけど、そんなものはないのだ。

目の前の人を見て、話して、理解してその上でその感想を伝えるかを決めてほしい

執筆のための資料代にさせていただきます。