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自分らしさとは。

数年前から、よく聞いているような気がする「自分らしさ」という言葉。
自分は自分でしかないのに、「らしさ」と付けるのはなぜだろう?

「らしさ」で思い浮かぶのは、高校の生徒手帳だ。

高校って・・・いったい何十年前の記憶なの?と思われるかもしれない。
けれど確実に、高校生の頃を思い出すのだ。


わたしは小学生の頃、転校を機にいじめを受けた。
特定の人物からだった。一度だけ親に言ったことがあるが、面倒がられてそれ以降は口にすることができなくなった。

トイレの個室にいた時に、バケツの水を上からかけられた。仲の良い友達が、担任の先生に言ってくれた。
思えばその年から中学校卒業まで、その特定の人物とは一緒のクラスにならなかったから、何らかの配慮がなされていたのかもしれない。

それでもわたしは、学校が好きだった。
授業中は挙手して発言し、水彩画を書くのが好きだった。部活もがんばったし、楽しく過ごせる友達もいた。
何より、居心地が悪い家庭だったから、わたしを認めてくれる学校が好きだった。

状況が少し変わったのは、高校に入ってからだった。
親の都合で中学の途中で引っ越しをした。一年間、電車で2時間くらいかけて中学に通うことになった。大好きな学校に通えなくなることが死ぬほど嫌だったからだ。

当然だが、高校受験でそれが変わった。
親しい友達の住む学区とは別の、まったく知らない地名ばかりの地域の高校に通うことになった。

勉強はできなかった。好きなことしかできない子だった。

高校は新設校で、とても校則が厳しかった。
地元で認められるような学生を育成すべく、教師たちは躍起になっているように見えた。
とんでもなくくだらない学校に来てしまったと、ため息をつく毎日だった。


定期的に行われる服装検査。スカートの丈、前髪の長さ、後ろ髪の長さ。ソックスの長さ。髪ゴムの色、ピアスは空いていないか。爪の長さはどうか。

通っていた中学は、市内でも荒れている学校だった。つまり、校則はなかったようなものだった。
けれど何より、荒れているからこそ先生たちの対応が、「やりたいことがあるなら、やってみればいい」という雰囲気だった。
かろうじて制服さえ着ていれば自由があり、理解してくれる大人がいた。


ところがだ。
この校則の厳しい学校は、これからの3年間を失望させるには十分だった。
家庭でも窮屈。学校でも窮屈。
さらに、どうやら中学生の頃も同じような環境にいたらしき、この地域の同級生は、文句は言うけれどスルーできる人たちだった。
わたしは常に、苛立っていた。


けれど、あるエピソードで、私の高校生活に変化が起きる。

入学してしばらく、季節が変わり夏服を着る季節になった。
やっと気に入らない学校の制服に慣れたと思っていたのに、もう別の服だ。

そして、恒例の服装検査だった。

「お前、スカートが長いぞ。放課後、生徒指導室へ来い!」
「は?」
「いいから次!」

乱暴な会話だった。
面倒な会話だった。


放課後、生徒指導室に行った。
数名の教師がいて、こちらをジロリと見る。男性教師にスカートの裾を触れて、長い定規を当てられた。

「やっぱり、長いんじゃないか?」
「だってこれ、お店のおばちゃんに計ってもらったやつなんだけど。」
「膝下○センチを越えてるんだよ!」

猛烈に腹が立った。
周りの教師たちが静観していることにも怒りが込み上げていた。

「先生、生徒指導っていうのは、タバコ吸いながらやるもんなの?」
「はあ?」
「とにかく、制服屋に計って作ってもらったもんだから。文句があるんだったら保護者に電話してください。」

そう言って生徒指導室を出た。


翌日。
担任に呼ばれた。

「お前、生徒指導室で啖呵切ったらしいな。さすが○○中出身だな。」
担任は、私の通っていた中学校の学区にある高校から転出してきた人だった。だから、何となく分かったのだと思う。

「だって、おかしなこと言ってくるから。」

「まぁな。俺もおかしいと思う。」

じゃあいいじゃん。うるさいなぁと思った次の瞬間、担任はこんなことを言った。


「お前、生徒会に立候補しろよ。」



自分らしさとは。

数年前から、よく聞いているような気がする「自分らしさ」という言葉。
自分は自分でしかないのに、「らしさ」と付けるのはなぜだろう?

「らしさ」で思い浮かぶのは、高校の生徒手帳だ。

高校の生徒手帳には、「高校生らしい服装」「高校生らしい行動」といった言葉が並んでいた。
とてもバカバカしい言葉だと思っていた。

「高校生らしさ」とは、大人が支配しやすい、都合の良い言葉にしか見えなかったからだ。

あれから長い時間が経った。
本当にいろんなことがあった。
苛立っていた高校生だったわたしには、20歳の娘と高校生の息子がいる。

そうして、ここ数年、大人から「自分らしさ」という言葉を聞くようになった気がする。

一瞬、聞こえがいいような。
決して耳障りの悪いものでもない。

けれど曖昧で、どことなく無責任さを帯びたように感じるのはなぜだろう。


深く息を吸って吐く。
もう一度、深く息を吸って吐く。

きっと、今のわたしが耳にする「自分らしさ」とは、意見できなかった人たちの彷徨う思いなのかもしれない。
意見できなかったと言ってしまえば、否定したように聞こえるかもしれないが、正しくあろうとした人たち、正しい自分を認めてもらおうとしていた人たちの迷いのようなものなのだと。


「高校生らしさ」が、大人が支配しやすい抽象的な表現だとしたら、「自分らしさ」は何だろう?

「自分らしさ」とは、自分が自分を支配する状態だ。
支配を言い換えれば、自分が自分を動かしていい。自分のことを決めていい。自分に対して正直になっていい。もっと素直になっていい。


もっと、自由になっていい。


けれど、自由はたいへんだ。
自由は、自分で決めなければならない。
こんな時代だ。
こんな時代だけれど、自由を求める人が増えている。
そしてわたしも同じだ。

人は、どんどん自由になるんだ。
自由になるんだ。


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