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「直感」と「違和感」を大切にしたい。改めましての自己紹介ストーリー


こんにちは!ウェブサイト制作プラットフォームのWixで広報とマーケティングを担当しています、間島ゆかりです。

先日、Twitterでこんな投稿をしたら「見たい!」って言ってくれた方がいたので、改めて自己紹介noteを書いてみることにしました。このnoteで、少しでも私のことを知ってもらえたら嬉しいです!

10歳までに引っ越し5回。環境への適応力が育った幼少期

神奈川県横浜市の小さな病院で産まれた私は、誕生してすぐ福岡に移ります。今はどうかわかりませんが、金融関係の仕事をしていた父の会社は「3年したら転勤」が当たり前。私はいわゆる「転勤族」の子どもとして育ちました。

幼稚園は2校(兵庫・東京)、小学校は3校(東京・埼玉・神奈川)通ったのですが、毎回馴染むのにとても苦労して、やっと友だちができた!と思ったら引っ越し。そんな繰り返しだったので、父の仕事を恨んでいた時期もありました。

でも今は、そのおかげで新しい環境への適応力がついたと思いますし、「引っ越しの多い子どもはクリエイティブ」という情報もあったので、前向きに捉えています。

「レオ様と話したい」で英語の道を突き進んだ青春時代

小学校を卒業した私は、神奈川県にある中高一貫校へ進みます。元々海外には興味があったのですが、当時上映していた『ロミオ&ジュリエット』を見て以来、レオ様(注:レオナルド・ディカプリオ)にどハマり。少ないお小遣いで今はなき映画雑誌『ロードショー』を購読し、「いつかレオ様と話したい」という一心でファンレターを書いたりしていました!

そしていつしか憧れは、アメリカ大陸そのものに。『フルハウス』や『アリー my Love』の世界に行ってみたい!という気持ちから、アメリカ留学を夢見て、青山学院大学英米文学科へ進学することになります。

「井の中の蛙」だと知った大学時代

高校時代、英語の偏差値だけは高くて70近くありました。だから英語には自信があったんですよね。それが、大学に入学して見事に玉砕。まわりを見渡せば帰国子女だらけで、英語のクラス分けは一番下。入学して早々、「もう辞めたい」と毎日思っていました。

そんな中、「短期間でも本場で英語を学びたい!」と思い立ち、春休みを利用してカナダのバンクーバーへ語学留学。ここでも、(日本人にはありがちな)「読み書きはできるのに、全然しゃべれない」という現実に直面。授業が終わるたびに号泣する日々を乗り越え、少しばかりの会話力を身につけて帰国したのでした。

そして今度は、本格的にアメリカ留学を決意。まわりが就活真っ最中の大学4年の夏に渡米しました。慣れない海外生活に、毎日100ページ近くのリーディングとレポート。食事が疎かになって、三食チーズバーガーという時期も(笑)

そんな中で出会ったのが、Publica Relations(広報)という科目。元々「コミュニケーション能力を生かして、社会貢献度の高い仕事をしたい」と考えていた私にはぴったりの分野で、帰国後の進路には外資系のPR会社を選びました。

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※留学先のNorthern Arizona University。自然しかないので勉強に集中できます。

「社会貢献」を突き詰めて見えた道

憧れのPR会社での日々はとても刺激的。名だたるIT企業の外部広報担当として順調なキャリアを歩んでいた私ですが、あるとき転機が訪れます。それが、2008年9月のリーマンショックです。

この出来事が原因で、クライアント数社との契約が終了。会社はこの危機をなんとか乗り越えたものの、「この世に不変なものなどない。もし明日世界が終わるとしたら、私はこの仕事をしていたいか?」と悩み、以前から興味のあった国際協力の道に進むことを決意。そして2010年6月、青年海外協力隊として南アジアのバングラデシュに赴任します。

当時、日本で見かけるバングラデシュのニュースといえば、「アジア最貧国」「サイクロン・洪水被害」などネガティブなものばかり。しかし私のミッションは「バングラデシュの魅力を日本語で発信して、観光に来てもらう」というもの。そのために、現地語であるベンガル語(日本で学んでから赴任します)でガールズトークしたり、右手をスプーンがわりにして現地の人とカレーを食べたり、窓もないボロボロのバスに8時間のって地方取材をしたり...と体当たりしながら、その魅力をブログで発信していました。これ以外にも映画や雑誌をつくったり、CD制作に参加したりと色々楽しかったな〜。

※当時ブログを書いていたヤプログ!は終わってしまったのですが、記事の一部が『トラベルコ』の特派員ブログに残ってました!

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※日本人は珍しいので、村に行くとこのように囲まれます。そのまま家に招かれて、食事やお茶をご馳走になることも!

結局、バングラデシュで過ごしたのは二年半。その後も働き続ける選択肢はあったのですが、治安が悪化していたこと、そしてなにより「ボランティアではなくビジネスの力で世界を良くしていきたい」という思いが強く芽生えていたので、本帰国して就職することにしました。

「異端児」の生きづらさ、そして見つけた居場所

帰国後、私は何社かの転職エージェントに登録するのですが、そこで言われたのは「協力隊の経験はなるべく言わないようにしましょう」という一言。企業は「協力隊」なんて変わったキャリアを歩む人はあまり採用したくないので、職務経歴書でも最小限に書きましょうということでした。

実際、面接まで行けたとしても「バングラデシュという国で二年間活動した経験」を評価してくれる企業は本当に少なかったんですよね。わざわざ面接で「協力隊の2年間はキャリアではないので...」と言われたこともあり、「これが日本の現実か...」と落ち込みました。そんな中、この経験を評価してくれる企業に出会って二年間勤めたのち、より身近な製品のPRに携わりたく、Evernoteの日本法人に転職します。

Evernoteはシリコンバレー発のユニークな文化を持った企業。「無制限の有給休暇」「柔軟すぎるWFH(在宅勤務)制度」などは、当時メディアでも注目を集めていました。また、同僚はもちろん、取材やイベントで出会うユーザーさんも良い意味で変わった人(またの名を"改革者")ばかり。こうした人たちと出会えたことで、「日本にも変わった人の居場所はあるんだ」と安心して、ようやくこれまでの自分の生き方を認めてあげることができたのでした。

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※かつて米・サンフランシスコのRedwood CityにあったEvernote本社のビル。

Wixに入社、そしてこれから

そんな大好きなEvernoteでの日々も永遠には続かず、次の転職先を探すことに。当時ネットニュースを見ていた方なら事情は察してもらえると思うので、ここでは割愛します(笑)

そして2019年2月。Evernoteの元同僚で、現在のWix日本法人代表から「法人立ち上げの話があるんだけど...」と声をかけてもらい、立ち上げメンバーとしてWixにジョイン(言ってみたかった)しました。そこからは怒涛の日々があって今に至ります。イスラエル出張も3回行きましたが、その話はまたいつか...ちなみに東京オフィスでは採用強化中なので、ご興味のある方はぜひこちらのページをご覧ください!

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※テルアビブにあるWix本社ビルの一部。海辺にあるので、出社前、終業後はサーフィンに行くという人も!

そんな私のこれからですが、Wixでの仕事を続けながら個人としての何らかの活動(有償・無償問わず)も増やしていけたらなーと考えています。そう思ったきっかけは、もうすぐ人生も折り返し地点に差し掛かるのと、自分がHSS型HSPという性質を持っていることに気づいたから。この性質の長所を生かし、「直感」と「違和感」を大切にしながら、気の合う人たちと活動していきたいです。

ちなみに、HSS型HSPについては、こちらのnoteがわかりやすいのでおすすめ。

ここまで約3,000字。本当はもっと書きたいことがたくさんありますが、ひとまずこれで終わりにします。Twitterもやっているので、気軽に絡んでもらえたら嬉しいです!最後までお読みいただきありがとうございました!!

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