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死の淵に触れることは、生の輪廓を知ること

初めて死を意識したのはいつ頃だっただろう。
「親が死んじゃったら!」「友達が死んじゃったら!」幼い頃から、誰かに突然会えなくなってしまうかもしれない恐怖をことあるごとに感じていた。友達が麻疹にかかったと聞けばすごく悲しくなって、親の帰りが遅いと心配になって号泣した。

人はどういうタイミングで死をリアルに感じるのだろう。それは、自分以外の誰かの死か、自分の死か。死のどんな側面を見つめるのか、それもまた人それぞれだと思うが、時が過ぎれば選ぶことのできない別れも、選んでしまった別れも訪れる。そして、私のことを振り返ってみると、3つの方向から死を見つめてきたように思う。

覚えている限り一番古い失う恐怖にまつわる記憶は、家族で遊園地に行ったときのことだ。父が「ジェットコースターに乗ってくる」というのを必死で止めた。そのまま死んじゃうんじゃないか、行ったら帰ってこないんじゃないかと心の底から心配になって、「行かないで」と号泣した。幼稚園生の頃だと思う。

時は流れて、今度は自分の番。高校生の頃から、うつになった。生きるか死ぬか、なんのために生きるのか。そんなことを毎日考えて、これは自分で選べることなのだと気がついた。結果、死なない方を選んだというか、死ぬことを選ばずに済んだというか。

その次はおばの突然死。記録に残る大雪の日、大動脈解離で亡くなった。ほぼ即死状態だったらしい。前日は忘年会で大はしゃぎしていたらしいが、そんなに元気だった人が。死をかけらも意識していなかった人が、死んでしまうこともあるのだ。

死が訪れれば生が終わり、訪れなければ生きている。生きているというのはそれだけのことなのだが、死の新たな側面を知る度生き方は変わっていったように思う。

死を漠然と恐怖として捉えていた頃には、生きることはただ当たり前のことで、疑問も無ければ生きることそのものへの肯定感もなかった。

うつになってからは約3年ほど引きこもりとして暮らしていたが、なぜそんなに長く何もせず家にこもり続けることを自分で許せたかというと、生きてるだけで十分だと思えたからだ。死なずに生きていることを肯定感を抱いた。

そのあとは5年ほど働いた。その先に何かを見据えることはせず、ただ生活を支える収入を得るためだけに働いた。なぜその環境を自分で許せたかというと、働いているだけで十分だと思えたからだ。社会不適合者では無くなり、社会の歯車の一部として働く自分に肯定感を抱いた。

夢はぼんやりと抱いても、過ぎる日々に不満もあった。でも、未来の自分のために今を変えようなんて考えることはなかった。今日1日は今日のためだけに消え、未来のどこにも繋がることは無い。そんな過ごし方になったのは、未来に生きている自分を想像できなかったからかも知れない。

そういう毎日に疑問をおぼえたのは、おばの亡くなり方が影響していたと今振り返ってみると思う。職場と家の往復しかしないいつも通りの生活。おばの死から約1年が経った頃。駅に続く赤茶色の歩道をいつものように急ぎ足で歩いていると、ふと「もし自分が突然この世からいなくなったら何が残るか」それが、やけにリアルに想像できてしまった。何を残し、何を捨て、どう生きた人として死ぬか。「このまま死ぬわけにはいかない!」とゾッとしたのだ。

生きることは、漠然と死を恐れることから、単に死んでいないだけという状態になり、この日からまた新たなものになった。「死にたくない」という感情を自覚したのだ。自分はまだ生きていける、と実感したとも言える。「それならば大義を達成すべく生きてみよう。」この頃から少しだけ、未来が具体的なものになった。

それからまた、2年が過ぎただろうか。相変わらず「未来を生きている自分」を想像するのは上手じゃない。刹那主義とも虚無主義とも言えるような一面も、未だに持ったままだ。

死と背中を合わせること、死の隣を歩くこと、淵から死を見下ろすこと。死のどれかの面に触れることは、生の輪郭に触れることだ。

予期せぬタイミングで死にたくはない。だけど死そのものを恐れているわけではない。たぶん、生への欲求もそんなになくて、「将来」というものに対する解像度は、死んでない未来がまあまあ楽しかったらいいなぁぐらいのものだ。

ふらふら漂うように生きたい。だけど、大義を達成するために何が出来るか探してもいる。夢や目標なんて、なくてもいいんだろう。だけど、今飛びついたことを完了させていくことは、今の自分を未来につなぎとめる杭になる。

いつか終わる日に向けてただ漂うのではく、自ら行く道を定める力を鍛えているところ。人生はまだまだ続くから。

おいしいごはんたべる…ぅ……。