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大学院進学に向けて

今年度から佛教大学社会学部B4になりました。
私は、たぶん10年遅れくらいで大学に在学中です。

16才の頃、沖縄工業高校定時制課程に通っていましたが、機械科専攻したら女子がみんな建築科にいってしまうことになり、それが原因で当時の彼氏からのDVが悪化したこともあり中退しました。

17才でおっぱいパブの呼び込みとして、沖縄一の繁華街松山で働きだして、18才でキャバに勤めだしました。理由はシンプルです。GSの維持費が高すぎるからです。乗り物、機械が大好きでした。

結婚の話は省きます。

たぶん、DVがなければ私の夢は船か飛行機の整備士だったので、定時制に通いながら予備校に行って、工学部受験していたと思います。

さて、少しだけ私の生い立ちの話をしましょう。
正直にいうと、父親が大怪我をするまで医師や弁護士、お金持ちの子どもが行く保育園に行っていました。

父の脳機能はドーパミンがきちんと分泌されない障がいを持っていましたが、当時は障がい者として認められませんでした。そのため、共働きになり、父が急死したあと、母は正社員になり沖縄の平均世帯年収を上まっていました。それに加えて、私は初孫だったこともあり、中学生で夜遊びしたり、家にからなくても、おじいちゃん、おばあちゃん家に行けば温かいご飯があって、お小遣いを貰える環境だったのでお金に困り始めたのは結婚生活をしてからです。

実家から徒歩1分のところに本屋があり、小説、漫画、文芸誌などは身近なものとして育ちました。小学生の頃は、塾に行く途中に県立図書館があり、色んな本に触れることができました。

私は日本人だけど、沖縄人なので、日本語が不自由です。沖縄の言葉を日本語に翻訳できないこともあります。それは、中学に行っていなかったからでしょう。

まあ、色々あって20才のときに沖縄で3本指に入ると言われている高級クラブで働くことになりました。お客様の言葉をきっかけに、高校に行き直すことにしました。

23才で17才くらいの子に混ざって勉強するのは、わりと苦痛でしたが、それは最初だけで卒業する頃には高校が恋しくてたまりませんでした。それくらい、いろんなことを学ぶ機会があり、楽しかったのです。

26才で沖縄国際大学に入学しましたが、1年で資金ショートし、中退しました。

でも、結果的には30才くらいで佛教大学通信教育課程社会学部現代社会学科に入学しました。

意外なことに年の離れた仲の良い友人もでき、指導教官にも恵まれ、院進を目指して残しまくった単位を取りまくる作業をしなければいけません(笑)。

「努力したんですね」と言われることもありますが、やりたい事をやるのに労力を使うとか、努力とかいう考えは、私にはありません。

どんなに苦痛で、泣きながら弱音を吐きながらやっても、やりたい事は貫き通せばいいというスタンスです。

よく「◯◯したいから◯◯を紹介してほしい」と言われ、紹介してきました。それでうまくいった事は、あまりありません。

別の通信制大学で頑張っていて、よくお互いの卒論の参考文献の話をする友人が言っていた事と叔父が言っていたことは、今後の私にとって重要になると思います。

「紹介してと言わなくても、きちんとやっていれば、どこかで繋がりは増えていくと思う」

「紹介してほしいなら仕事よこせと言えば良いし、良い事しか言わない人間はあまり信用できないから、自分で付き合いする人を選べ」

私自身、水商売で人間の汚ない部分ばかり見てきた事もあり、良いこと言う人はポジティブなんだと思ってしまいました。しかし、B4になり、院進のためにやる事も増えた中で、そういう人はスルーしていくのが今後の課題です。

一般社会に綺麗な理想像を押しつけて失敗し続けたのは、やはり、一般社会に馴染めていなかったのだと思います。

中途半端な感覚は大事にしていきたいけど、人間関係にはシビアになっていく必要があると考えさせられた大学生活です。

大学について言うなら、マスコットキャラクターフーディー作ってほしい。(学校行くときだけ着るw キャラがブッタだからネタだし)

あと3200字のレポートは長すぎだから、他所の通信制みたいに2000時にしてほしいw

これからは、自分の目指すところに集中していこうと思いました。

最後になりましたが、私はシングルマザーです。
シングルマザーでも色んな制度を組み合わせれば、大学に行けます。低賃金の仕事しかない、子どもに何も教えてあげられないとは思わずに、挑戦していってみてほしいです。

というわけで、倫理審査の書類と勉強に戻ります。

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