虹のかかる場所

 人類は息をひそめていた。世界は静止したかのように静まり返っていた。
 つい先日まで、何年にもわたって長く続いた戦火が、人々の心に暗い影を落としていた。
 出歩く人はほとんどいない。些細な立ち話も、少しの触れ合いも、かつてのような気軽な立ち振る舞いはいまだ憚られた。迂闊に出歩けば、偏った正義を振りかざすあまり暴徒と化した何者かに、悪と決めつけられて成敗されるかもしれない。ただ呼吸するだけでも胸の締め付けられるような、そんな窮屈な日常ばかりが淡々と続いていた。
 だがそれでもなお、わずかに残った自然、草花や空の色は変わらず人類の傍らにあった。日が昇れば新たな一日が始まり、夜の帳がおりれば星々が瞬く。季節が巡れば折々の花が咲き作物や果実が実り、冬枯れの後には芽生えの春がやってくる。あたたかな日差し、時折り吹く強い風、そして雨。自然の営みは変わることなく人類とともにある――
 と、思われていた。
 とある雨上がりの朝。たまには窓を開けて陽の光を浴び、澄み渡った青い空でも眺めてみなければますますふさぎ込んでしまうからと、一人の女が天を見上げたときのことだ。
「わあ、今日は虹がかかってる。でも……あの虹、何だか様子がおかしいわ」
 虹といえば、青い空に七色のアーチを描いて淡く輝く光の芸術、だったはずだ。けれどその日の虹はところどころがぐにゃりと曲がり、まとまりなく枝分かれしていて色の数が少なく、どこか翳りのある、以前のものとは似ても似つかない不思議な虹だった。

「大変です、虹がおかしなことになっています」
 遥か空の彼方、天上の国からその様子を眺めていた天使が、隣に佇むこの国の長に告げた。長は人の世界の空の様子をちらとうかがうと、とりたてて言うほどでも、といった風な口調で、静かに言った。
「おやおや。虹が腐ってきているな」
「えっ、何ですって」
「空はね。人間たちの心を映す鏡のようなものなんだ。人類の心が病んでいたり、希望を見出せなくなっているとき、空の繊細な部分から影響が出始める。この虹は、今なお暗澹としている人間たちの心そのものさ」
「で、では、人間たちを救うために、手を貸してあげなければ」
 天使ばかりが取り乱す。長は口調を崩さないまま続けた。
「まあまあ。これは人間たちの問題だ。今は取り返しがつかないなんてことはないし、彼らがこれからどういった選択をしていくのか、見守ってあげようじゃないか」
「ですが、神さま」
「まだまだ心配いらないよ。もっともっと人の心が暗く沈んでいくと、虹の色はなお濁り、炭のようになって空から剥がれ落ちるだろう。雲が岩のようにのしかかり、昼と夜とがまだらに混ざる。そこまでになってしまったら、まあ手助けが必要かもしれないが」
「そうはならない、と?」
 神さまと呼ばれたこの国の長は、静かに大きく頷いた。
 すべての人の心が晴れ渡る日――そう遠くない未来を、待つばかりのようだった。

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