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絶対平和社会

 読んでいた新聞を傍らのマガジンラックに収めると、エム氏は残りのコーヒーを飲みほした。今朝の朝食は五枚切り食パンのエッグトーストとサラダ、そして一日のはじまりにいつも欠かさないコーヒーだ。ダイニングにはまだコーヒーの良い香りが残っている。
「ありがとう」
「いいえ」
 食事を用意してくれたのは妻のアイ氏だ。朝の忙しい時間にもかかわらず、アイ氏は笑顔で応じてくれた。
 食事だけでない。エム氏の仕事が忙しい時などは家事のほとんどが妻に任せきりになってしまう。感謝してもしきれない、その気持ちに嘘はない。ただ、何かしてもらうたび、家事だけでなく、たとえば手の届かない位置にあるリモコンを取ってもらったり、どこに仕舞ったか忘れてしまった便箋の場所を教えてもらったり、といった場合にもその都度感謝の言葉を口にするのは、少々やりすぎではなかろうか、とも思う。
 しかし毎回きちんとお礼を述べなければ、また受け答えする側も不機嫌な表情など見せないよう努めなければ、この国では罪になってしまう……。
 朝のルーティーンをひと通り終えたらそろそろ出社の時刻だ。屋内用のスリッパから革靴に履き替えたところで、妻も玄関までやってきた。
「行ってらっしゃい」
「行ってきます」
 この習慣もまた、法律によって義務付けられてしまったうちのひとつだ。

 電車の中は静かで、走行する車体の振動音の他には乗客の息遣いくらいしか聞こえてこない。日中よりは人の多い通勤時間帯だが、それでも乗車率が百パーセントを超えることはない。また乗客たちもできるだけ姿勢を正し、座席に座るか、もしくは吊り革につかまって立っているかだ。さして広くもない車内に人々が整然と並んでいる様は、まるで美術館の彫像のようだ。もっとも、この中ではエム氏もその彫像のうちの一体とならざるを得ない。
 しかし、昔は朝が訪れるたびにホームも電車も夥しい人でごった返していたというのだから不思議なものだ。車内に詰め込めるだけの人を詰め込んで走行する電車など、今やまったく見る機会がない。帰りだってもちろん朝と同じ静けさで、大声で通話だの飲酒だのする人間はひとりもいない。
 そうしなければ罰せられてしまうから――というと身も蓋もないものの、皆もきっと電車に詰め込まれたくはないのだろう。エム氏を含め、不満を口にするものはいなかった。

 オフィスに午前の終わりを告げるチャイムが鳴り響いて、昼休みになった。エム氏の在籍する部署と同じフロアに社員食堂があり、昼食はそこを頼りにしている。エム氏がいつものように席を立つと、隣のデスクから声がかかった。
「あ、先輩、今日は僕もご一緒します」
「おやユージーさん、君が食堂なんて珍しいですね」
 同僚のユージー氏はエム氏よりやや年下だが、明るく愛嬌があり、働きぶりも良いので、互いに友人のような間柄だ。
「ええ、今日は妻も忙しいそうなので、弁当はいいよと伝えておきました」
 自身の妻がそうであるように、ユージー氏の妻も何か職に就いているのかもしれない、とエム氏は想像を巡らせた。また仕事に限らず、趣味やイベントなどで準備に追われることもあるだろう。
 セルフサービス式の社員食堂で適当に何品か選んで会計を済ませると、二人は手近な空きテーブルに陣取った。十五脚ほどある四人掛けサイズのテーブルはもうそれなりに人で埋まっている。
「そうそう。うち、子供ができたんですよ。この前、妻の妊娠が分かったんです」
「それはおめでとう。いずれ何かお祝いの品を贈らせてもらうよ」
「ありがとうございます。予定日はまだ先なんですけどね。ただ、それでも悩んでいることがあって」
 ユージー氏の箸が止まり、それまで明るかった表情が途端に曇った。よほど深刻な悩みなのだろうか。
「名前をどうしたものかと」
「名前か。今の法律だと、名付けも一苦労だな」
 理由を聞いて、エム氏はすぐに納得した。
「そうなんですよ。『アルファベットと数字の組み合わせで五文字まで』と言われても、ゾロ目や記念日なんかの格好良い名前とか、短くて呼びやすい名前はもう取られてるじゃないですか」
 平和な社会を実現する、という理念に基づき、今では子供の命名についても法律による制限がかかっている。読みづらい文字の組み合わせや奇抜な名前は意図しないトラブルの元、という理由だ。あだ名についても、本人の了承を得ない限りは原則禁止ということになっている。
「その点、我々は名前に恵まれたな。私も結婚前、今の妻に惹かれた理由のひとつに『名前の短さ』があった」
「ま、確かにぼくたちはマシな方ですけどね。でも正直、そこまで厳しくしなくてもいいと思うなあ」
 ユージー氏がぽつりと本音をこぼす。するとひとりの女性が、エム氏らのテーブルの前で足を止めた。
「おっと。こんなところで行政への愚痴はやめてくれよ。私も部下を失いたくはないからね」
「あ、部長……すみません、軽率でした」
 女性は二人の上司にあたる人物で、名をオーセブンエイチナインといった。名前を呼ぶには長いため、社内では大抵の者が役職名で呼んでいる。氏はそのまま空いている席、ユージー氏の向かいに腰かけた。
「なに、本人に罪の意識と謝罪の意思がある、とわかればいいんだ」
「いやあ申し訳ないです。罪になる行為が多すぎて、ついいくつか忘れてしまって」
「誰にでも『うっかり』はあるからね。お互いにそういった誤りを指摘し合い、風紀と平和を保つための相互監視の取り組みだ。過剰に気にすることもないよ」
 別に行政に対してのみ、というわけでない。この国で『何か』への不平不満を口にして、もし『正義感に満ちた』誰かに聞かれでもすればどうなるか。幸い、今回の失言についてユージー氏は命拾いしたようだ。
『平和維持対策』は『相互監視』だけにとどまらず、小さな虫に似せたロボットが街中で映像を記録しているとか、一般の人に紛れてつぶさに人々を観察し、問題があれば警察に通報する等の活動を行う『監視員』がいる、などと主張する人もいる。誰もが平和に暮らせる社会が何より大切だと頭で理解していても、ともすれば目の前の友人が犯罪者として連行されてしまいかねない仕組みや法律の多さには、やはり疲れてしまう時もあろう……。
「そういえば、わが国の政治や立法はどこで誰が行っているのでしょうか」
「というと?」
 ふと、エム氏が誰にともなく素朴な疑問を投げかける。
「国の代表となるリーダーがいる、ということだけは知っていますが、メディアにも出てこないし、あまり目立っていないでしょう。他国の大統領や首相の方が有名なくらいです」
「言われてみれば、そうですね。別に生活に困るわけでもないし、気にしたことがないなあ」
 ユージー氏の言う通り、この国で普通に暮らしていくのに不自由はない。教育も医療も安価で十分に提供され、老後の不安もない。為政者のことなど考えずとも、法を犯さなければ、平和さえ乱さなければ。
「今の体制に変えよう、というときに、随分揉めたそうだよ。そのいざこざの中で政治家の人数もかなり減ったらしい。今の国家元首のお名前は、確か……」
「確か?」
 エム氏もユージー氏も知らないその名前を、部長は聞いたことがあるらしい。二人は空になった食器を下げるのも忘れて、続く言葉を待った。
「そうそう。確か『エーアイ』さんというのではなかったかな」
「エーアイさん、かあ。きっと、すごく実行力のある人なんでしょうね」

 夕方、エム氏は仕事を終えて帰宅すると、昼とはまた違う疑問について考えていた。
「あなた、今日はお疲れのようですね。早めに休まれますか」
「あ、いや、そうではないんだ。ありがとう」
 リビングルームのソファに腰かけて黙ったままだったエム氏のところに、妻が早足でやってきた。言葉も出ないほど疲れていると思われたらしい。
 本当に気立ての良い、人として尊敬できる、すばらしい女性――しかし、エム氏が抱いている疑問は、その理想的な妻に対してのものだった。
「その、アイさん。君の仕事のことが、なんとなく気になってね。在宅ワーク、としか知らないものだから」
 そうでしたか、と安堵のため息をひとつついて、アイ氏がまた問うてくる。
「突然どうされたのですか」
 その彼女の口調は、ごくわずかながら、普段よりも硬いように思われた。
「お互いに仕事があるなら、君にも疲れる時や忙しい時があるだろう。アイさんに苦労をかけすぎていないかと思って」
 エム氏は小さな嘘をついた。
 わが家の『平和維持対策』はどうなっているのか――君は私を監視しているのか、とは、とても聞けなかった。
「心配ありませんよ。簡単なデータ入力ですから」
「なるほど、データ入力か。たとえばどんなデータを?」
「ごめんなさい。守秘義務があるから、詳しくは話せないの」
「そこを何とか、少しだけ」
「あなた」
 アイ氏がいつになく強い口調で言い放ち、部屋の空気が凍てついた。ほんの一瞬の、時が止まったかのような沈黙。
「話せない、と言っているのです。夫婦とはいえ、秘密を無理に聞き出そうとする行為は……」
「す、すまなかった。許してくれ。もう聞かないから」
「よかった、わかっていただけて。もうすぐ夕食の準備ができますから、待っていてくださいね」
 妻にいつもの笑顔が戻り、エム氏は胸を撫で下ろす。誰しも自分が連行される側にはなりたくない。
 アイ氏がどんなデータを入力していて、それがどこでどう使われるのか。疑問の答えは出ないままだが、これ以上の詮索もできない。エム氏は自身の疑念に蓋をすることにした。
 個人が抱く小さな疑問、ちょっとした違和感。そんなものは社会全体の平和に比べればごく些細な問題だ。
 それらを抱えて『最高の幸福』を手にするのは難しいかもしれない。けれどこのまま『不幸にならない生活』なら続けていける。そんな生活の、一体どこが悪かろうか。
 今日も明日も、平和な社会は続いていく。

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