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何も起きない

「よォし、今回のテストも学年一位だ」
 中学二年の少年・淳は、今日も青春を謳歌していた。
 とはいえ彼の学生生活は最初から順風だったわけではない。すべてはつい先日、些細な事故で頭を打ってからのことだ。
 痛みが引いてからすぐ、成績も、運動能力までもが飛躍的に上昇し、そのお陰で性格まで明るくなった。彼の日常は、文字通りひっくり返った。
「おめでとう、淳」
「ああ、ありがとう」
 淳の隣には満面の笑みで彼を祝福する女生徒がひとり。彼女いない歴の自己記録をひたすら更新し続けていた淳にできた、初めての彼女だった。
 ごく稀に、頭部を強打したのちに何らかの才能が開花した、という人のニュースが世間を騒がせることがある。淳の場合も、それと同じようなことが起こったのだと、そう思わずにはいられなかった。ここまでいいことずくめなら、もっと早くに頭を打っておけばよかったと。
 以前の彼はといえば、長所も取り柄も大したものは見当たらず、事あるごと、
「つまらねえ毎日だな」
 と呟いて一日を終える、そんな少年だった。
 名前は淳と書いてスナオ。成績はせいぜい中の下、運動は大の苦手。そのくせ年頃のせいもあってプライドだけは高く、ついたあだ名はスネオで、当然のごとくクラスで疎まれる存在だった。
 努力はダサい。理想は高い。そんな価値観の彼は現状に飽き飽きしながらも環境を変えようとはせず、何も起きない毎日が延々繰り返されるだけの人生を生きていたのである。
 ところが、突如降りかかった不幸が、彼を変えるきっかけとなって――。
「おい、てめェ。いい加減調子に乗ってんじゃねえぞ」
 ――きっかけとなったものの、少々のトラブルも舞い込むようになった。
「……やれやれ。またか」
 一躍クラスの人気者、校内の有名人となった淳は、一部の不良生徒から目をつけられたのだ。体育館裏に呼び出されたこともあったし、下校中に絡まれたこともあった。今日は校門前での待ち伏せだ。奇抜な色の髪の毛を生やした数人が、ぞろぞろと淳の前に歩み出る。
「かかれ!」
 一人対多人数、前口上もないまま各々わかりやすい凶器を振りかざし、卑怯の限りをもって淳に襲いかかる不良たち。しかし淳はまるでうろたえることなく、口の端を吊り上げさえしながらそれに応じた。攻撃をことごとく避け、代わりに自分の拳と蹴りを叩きこんでいく。上昇した運動能力は、ケンカでもその力を発揮した。
「く、くそっ、これでも勝てないのか……」
 決着は早々につき、地面に転がった十人余りの不良たちを淳ひとりが見下ろしている。淳にとっては、もはや見慣れた光景だ。
「ムダだ。何度やっても結果は変わらない」
 気障な態度を崩さない淳だが、文句を言う者はいない。むしろ彼を慕う声が大きくなるばかりだった。
 平穏を取り戻し、彼女とともに帰路についた淳。しかし、行く手に妙な気配を感じ取り、その足を止めた。
 誰かが、いる。しかし。
 不良の類が放つ殺気とは少し違う。警戒しつつ淳が一歩踏み出ると、わき道から謎の男性が現れた。
「知り合い?」
「いや……」
 不思議そうに問う彼女に、淳は首を横に振って答えた。
 三十代なかばほどだろうか、世の中年男性のイメージよりはまだ少し若く見える、中肉中背の男性だ。地味な洋服の上に、真っ白いアウターを羽織っている。どれだけ考えてみても、やはり淳の知る人物の中に男の顔はなかった。
「あなたは?」
 男は淳の問いには答えなかった。代わりに、淳に向かってこう言った。
「君は……以前の、普段通りの日常に戻る気はないか?」
「何だと!?」
 思いもよらない男の言葉に、怒気を露わにする淳。
「何も起きないように見えても、変わり映えしなくても、案外それだけで日常は尊いものだよ。元の自分に戻るつもりはないかい?」
「ふざけるな。誰があんな暗い日々に戻るものか。僕にとっては今が最高の、本当の日常だ!」
 優秀で快活な自分、年相応にきらめく青春、ちょっとしたバイオレンス。彼が求めてやまなかった楽しい日常が、今まさにあるのだ。それを手放す理由など、淳にはなかった。
「――そうか」
 淳の強固な意志を感じ取ったのか、男はそれ以上何も言わずに淳の前から姿を消した。
「わたしたち、ずっと一緒だよね?」
「あたりまえだろ」
 心配げな彼女に、淳は微笑む。
 また明日も、その先も、楽しい毎日が待っているはずだから。

「申し上げにくいのですが……息子さんの意識は、このまま回復しないかもしれません。脳死の可能性が――」
「そんな、淳……!!」
 医師が低く押し殺した声でそう宣告すると、淳の母はその場で泣き崩れてしまった。然して広くもない病院の一室に、軋むような嗚咽だけが響いた。
 事故から数日、淳は病院のベッドの上に横たわったままだった。息はしている。が、傍目から見ればただそれだけの状態だ。
「でも、息はしているでしょう。本当は意識だってあって、体が動かないせいで表に出せないだけかもしれない。まだはっきり死んだとは……」
 死、という単語を受け入れられない淳の母は、藁にもすがる思いで医師に食ってかかる。
 白衣が破れそうなほどに強く掴まれても、医師は感情的になるわけにいかず、淡々と母親を諭すしかできなかった。
「あるいは何か、夢でも見ているのかもしれません。けれどもそれは我々にはうかがい知れないことです。とにかく、息子さんはこのまま目を覚まさない可能性の方が、遥かに高いでしょう」

 少年の身には、もう何も起きない。

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