嘘偽りなく言いますと、「言葉なんてもうまっぴらだ!」と思ってしまうことはよくあります。
無気力さでいうたらわたしの右に出るもんおらんのちゃうか、と思わず考えてしまう程度には、結構な大波のなかにいた。
現実を見たくない。文章書きたくない。
家から出たくない。誰とも会いたくない。
素敵な言葉に心を動かされることなんて、まっぴらごめんだとすら思っていた。
というかやや現在進行形で、今もそう思ってしまうから大変だ。
言葉で心を動かしたいとか書きたいとか、散々言ってきたくせに死ぬほど矛盾しているようだけど、実はしばしば起こる現象なのである。
非常に説明がしにくい。なんだろう、自分はこうはなれないという劣等感とか、羨望とか嫉妬とか脱力感とかそういうの、少なくともポジティブじゃない感情がぐるっと渦巻いて、あ、もう見たくないかもしれない。というところに行きついてしまうのだ。
自分よりがんばってる人を見ると焦る、みたいなシンプルな気持ちにも似ているけれど、そういう漠然としたものと違うのは、自分が何よりも好きで没頭したいことのはずなのに、見たくなくなってしまうのだということ。
ちょっと自分でも何言ってるのかよくわからないけれど。言いたいことをうまくまとめられてないのだけど。
繊細でやわらかい言葉に心を動かされるのは、それに揺さぶられて苦しくなってしまうのは、もううんざりだった。
普段あれだけ求めて足掻いて、そういう言葉を紡ぐ人を目指しまくってるくせに、向き合いすぎると定期的にとってもしんどくなってしまうので、ああその程度なんだなって自分自身に落ち込んでしまう。
そのくせして、その道で輝いている人を探し出しては、食い入るように見漁ってしまうことをやめられない。
落ち込むとわかっているのに、彼女がいる好きな人のSNSをなんどもチェックしてしまったり、痛いと知っている奥歯をわざと押してしまうような、そんな心情に近いのかもしれないな。
夏生さえりさんの文章も、そんな負の感情のさなかで出逢ったものである。
ご自身の本も出されている有名なライターさんだし、ツイッターでもよくお見かけするので名前は以前から知っていたのだけど、きちんと文章に触れたことは実はこれまでになかった。
例のごとく、呪いにかかったように夏生さんのツイートのスクロールを止められずにいると、約一年前に更新されたブログ記事にたどり着いた。
タイトルは、
「好きなことを仕事にしたいんですけど、本当にそれがしたいことなのかいざとなったらわからなくなって、方法もわからないし進路も決められないし、悩んで苦しいです。」
「いやこれって、そのままわたしやん」
思わずそうつぶやくと、速やかにそのURLをタップして記事をひらく。
気がつくと、息をするように泣いていた。
これはそのままわたしに置き換えられる。
「好きなことを仕事にしたい」けれどそのために何もかも手放すほどの熱意もなく、忙しいと聞けば挫け入り口が狭いと言われたら諦め、でも「好きなことがしたい」なんてわがままを言って一歩も進めなくなる様子。
わたしはこう言いたい。
「ゆっくりでいいんじゃないか?」
そんなすぐに夢を叶えようとしなくてもいいじゃない。そんなすぐに「好きな仕事」をしなくてもいいじゃない。時には「これは夢とは全然違う道のりだ」と思うこともあるかもしれないけれど、今よりももっと先に自分のやりたいことをぼんやり描いておけば点はいずれ線になる。目の前のことを頑張る期間は (中略) 「心が本当に違和感をおぼえて走り出さずにいられなくなるまで」でいい。
立ち止まって考えて悩んで死にたくなって涙でオリオン座が見えなくなる日も、やりたいことを「逃げ道」以外でずっと持っていれば、いつか何かしらの形で近づいてくる。その瞬間を逃さなければいいんだと思う。
(https://saeri.goat.me/3u1u964W)
ものすごく凝り固まっていたところに、一つひとつの言葉がまっすぐ素直に、すとんと刺さる。
好きなことのくせに、がんばりきれない自分が情けなくてしょうがなかった。
なんで書く人になりたいんやっけ。わたしって、なにがしたいんやったっけ。
そうぼんやり考えては何もせずに終わる1日をくり返し、「いや、でもやっぱりわたしにはこれしかない」と違和感をごまかしながら自分に言い聞かせ、まさに「逃げ道」として夢を掲げていたのだと気づく。
いったい、何を生き急いでいたんだろう。
葛藤が完全に霧消したわけではない。
正直なところ、今でも100パーセント「ゆっくりでいいや!」とは思いきれない部分もあるけれど、でも、どうして「今すぐ」結果を出すことにこだわり続けてたんだろう、と思えるようにはなったのだ。
「(ある程度の経験や年齢を重ねたうえで)
夢にひたむきでまっすぐひたすら、揺らがず頑張れる奴の方がキチガイやで」
自分の中のぐらぐらをぶちまけた時、尊敬する人に言われた言葉がよみがえる。
言葉に悩まされて苦しんで、でも結局、救われるのもやっぱり「言葉」なのだった。
創作は、麻薬なのだという。
詰めれば詰めるほどしんどくなるし、
認められた瞬間や達成感で得られる喜びはほんの一瞬のものだけど、その一瞬を求めて何度でも、地獄の底から次の自分が這い上がることができるのだ。
(これは全部人の言葉の転用&アレンジですが。アレンジて。)
いつかわたしもそっち側の、
創って、伝える側の人間になりたい。
その気持ちは勿論いまでも消えていないし、自分の本を出すという夢は死ぬまでに絶対叶えてみせるけど、迷いを残して無理やり進むのは、多分ちょっと違うんだと思う。
いまの偏った生き方や乏しい人生経験だけのままじゃ、足りない部分がきっとまだまだたくさんあるから、だから。
「見たくない」「書きたくない」
そう思ってしまうほど、わたしが真剣に向き合ったという事実は確かにあって、揺るがない。
軌跡を自信に、迷いを糧に。
今はとりあえずそうやって、少しずつ塗り重ねていくしかないのだ、きっと。
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