見出し画像

あたしと別れられないあたし

飲むみたいに読めてしまう本がたまにある。
昨日、古本屋で見かけて手に取った本谷有希子さんの『生きてるだけで、愛。』はまさにそれで、ほとんど気味がわるいくらいのスピードで読み進め、腹におさめるに至った。

まず、どきりとさせられたのが「過眠」というワードだった。
「(自称)鬱から来る過眠症」をわずらう25歳で無職の主人公・寧子は、1日の大半を寝て過ごす。およそ清潔とは言い難い、暖房をガンガンに効かせた部屋の中、淀んだ空気を吸って吐きながら朝方眠り、その日の夜遅くに目を覚ます。
寧子ほどではないにしろ、わたしも近頃の休日の大部分は睡眠に費やしていた。夜と呼べる時間帯には就寝しているにも関わらず、目覚めるとすでに夕方で、そのままダラダラとまどろむうちに日付が変わる。

眠っている間はなにも考えなくて済むからとても楽だ、と思う。目を覚まして自分の感情と向き合うのが嫌で、現実から逃れるように眠りの世界へ意識を引き込んだ。そうして漫然と時間を消費するうちやがて月曜がやってきて、朝が来たらばまるでまともな顔をして、ちゃんとおりこうに会社へ向かう。
少なくともわたしは勤労の義務を果たしてはいるれど、それでも似ている、と思った。被害者じみた顔をして己の怠惰を正当化するところ。わかってくれないのは世間の方だと言わんばかりにめそめそし、しかしそれと同じくらい強烈な自己嫌悪に襲われるところ。

また、物語の終盤、ようやく社会とのつながりを作りかけた段になって「ウォシュレットがこわい」という自分の感情をわかってもらえないことに苛立ち、アルバイト先のトイレを叩き割って逃走するさまや、雪が降りしきる中、マンションの屋上で全裸になって恋人に支離滅裂な主張をぶつける様子にも痛いくらい共感してしまい、同時にえもしれぬ恐怖に襲われた。

この感覚をわたしは知っている、と思った。彼女の理不尽な逆ギレや突然の破壊衝動や自覚ありきの奇行なんかが、あまりにもよくわかってしまい、同時に自分はそれをなんとか思いとどまれているからまるで社会の歯車みたいな顔をして、のうのうと過ごしていられるにすぎないのだと、気づかされたからである。

いつどこでこうなってもおかしくなかったし、今後いつこうなってもおかしくないなと思った。
たとえばつい先頃だって、カップ麺をすすりながら下唇を噛んでしまったとき、信じられないほどの怒りがこみ上げて、会社の休憩室じゅうに響き渡る声で痛いと叫んで残りのスープをぶちまけてしまいたかった。苛立ちのあまり部屋の壁に向かってシャープペンシルを投げつけたあのとき、たまたまそこにいたのは自分ひとりで投げつけたものはシャープペンシルだったけれども、それが他のなにかであったりそばに誰かがいたり、そもそも部屋の中じゃなかった可能性なんていくらでもあった。仕事をしているふりをしながらパソコンに打ち込む鬱々とした文章は、他の人から見えないようにウィンドウを小さくするだけの分別がわたしにはまだあるけれど、それを社内メールで一斉送信することとほんの紙一重だとも思う。

生まれ変わったら平穏無事な情緒が欲しい。

#エッセイ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?