問題の分析と相殺から。

問題を複数の人で話合うとき二つの現象がぶつかっている。
1.一つの問題を様々な視点から分析すること。
2.複数の似通った問題どうしを結合させる。


1.は系統、分類、水準、時間軸により考察する。多岐にわたるため時間と労力がかかる。

2.は他の問題要素または因子を「同一」に扱うことでより早い解決に向かうこともできる。

比較して見ると。
1は時間がかかるが正確である。2は早いが正確ではないことも含む。

脱線してしまうと、源流解決か重点的解決か?

問題をすぐに治したい欲求が生理的にも説明されるだろう。しかし、利を目的にするならばあえて別の審理を採用しなければならない。そうしなければ問題を解決ではなく相殺しているからである。

相殺とは現象としてあるが時間軸や利益の観点から無に帰すること。

ストレス社会は問題が多いことが原因であると同時にこれらを一定の水準で解決することを選んでいることに他ならない。つまりどうしようもないことはなかったことにしている。

重点的解決には必ず限界がある。

話を戻して。
私が色々と思案して問題の考察をしているのに、私の考察をなにいってるのか?というようなまとめ方で対応してくる人もいる。これが一人二人ならいいがチーム全体がそういった体質を持ち得る。特に体育界、スポーツ振興の強い教育の影響による弊害があるように思える。

これには理由があり、スピードや合理性がモノを言うのであり、逆に言えばボーッと考えていたらそもそもスポーツではないのだ。

分解して考えをリスト化してもこれとこれは同じ意味だとか、「これはダメあれはいい!」のような「刹那的な」正解or不正解を要求してくる。

勿論時間と労力の点では相手に協力をしてもらわなければ成立しないのだからご機嫌を伺うなどのことはなくてはならない。が、それにしても相変わらず早い解決とか周囲からの期待するものにとらわれている。我々の人生を観客を含めて一つのレースとしてあるかのように。

問題を問題として見ることに、もう取り掛かるのだ。
私にはこれが将来の創造に他ならないと考えている。

確かにブレがある。この点は良くも悪くもゲームであり、上手くいかないことも事実ある。一つの解決策では最小単位を例えば10から20に変えることである。サンプル数もしくは回数を増やすのである。

どうしても時間がかかるのは、今からはじめても"遅くない"ことなのだ。

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