小学校で教わる「型」の危険性
サイモンシネックの有名な TED に、ゴールデンサークルの話がある。優れたリーダーや、その組織として代表される、 Apple 社、マーチン・ルーサー・キング、ライト兄弟など、人を動かす偉大な指導者たちは、通常の人間と思考が逆だというのだ。ゴールデンサークルについての動画はこちら。
誰でも、どんな組織でも、自分たちが何をしてるか、どうやってやるかは分かっている。でも、何故やるかが分かっていない。しかし、偉大な指導者や組織は、逆で、なぜやるかから考えるという説明である。とても古い動画だが、普遍的なことを言ってるように思う。
そう聞くと、私たちは今やっていることの理由を後付けで考えてしまう。例えば、何のために働いているのか、何のために家事をするのかなど。でも、その場合は、やっぱり 順序が逆。優れた人は、そもそも 後付でなんか自分のしてることを考えていない。この動画からそのことがわかる。
型を作るなら、まず「なぜ」を先に。それが原動力となり、「何を」「どのように」が出てくる。
例えば、コンビニ店員を例にとっても、決められたマニュアル通りに仕事をして、ただお金を稼ぐために作業をしてる人と、例えば、地域を笑顔にしたい、朝、これから会社に向かう人の気持ちを明るくしたい、それが原動力になっている人の働きは当然段違いだ。
で、型は重要で、そのように仕向けたい場合は、まず「なぜ」を先に考えるしくみを設定すべき。ただ、それが悪い方向に行く場合もある。
私は長年、小中学生に作文の指導をしているが、いつも学校教育による文章の弊害を感じている。
漢字の練習方法にしろ、教科書の音読方法にしろ、読書感想文の書き方にしろ、小学校入学時にはなかった癖が、小学校卒業時にはべっとり張り付いて出てくる。
漢字学習は、本来、もっとワクワクするものであったはずなのに、同じ字を何回も何回も繰り返し書く。使うシーンを想定せず、とにかくその文字だけを書く。教科書の音読は、ものすごく 特徴があって、社会に出てからはそんな読み方は絶対にしないという読み方で徹底的に指導される。読書感想文についてはもう本当に手の施しようがない。
小中学生のうちは、むしろ型通りに書くのではなく、自由に書かせ、量を稼ぐ時代だと思っている。ところが、あるパターンを学んでしまうと、型というものは厄介で、固定、ワンパターンになってしまう。読書感想文を書いてくると、読む本はそれぞれ異なるにしても、文章の型は恐ろしいほど酷似していて、たくさん読んでいると多少吐き気を催すほど。
型はある程度量を書いた後だと、整理に役立つ。むしろ型に当てはめてみて、自分の不足してる部分に気が付く便利なツールではある。が、始めに型ありきで使っては、とても危険だ。せめて、その型に落ち着いた経緯ぐらいは知っておきたいが、小学生ではその方向の入り口は違う。
子ども達の発表の仕方にも、気持ち悪いほど型がある。
結論ファーストなことはOK。でも、このパターンだと、子ども達は後付けで理由を考える人になってしまう。そこが危険だ。
何をどうやって、なぜ、という順位、つまり、明確なものから曖昧なものへという順番ではなく、なぜという曖昧なものを先にはっきり考え、それを先に伝える。で、発表する時には結論を先に言う。この思考順序を誤ってはいけない。