ハンドクラフト

ハンドクラフト<名>手仕事で作られた作品。手工芸品。ハンディクラフト。 

小学生の頃から、私は図工の時間が好きだった。きちんと座ってお利口に先生のお話を聞いて「お勉強」しなければならない国語や算数や社会に比べて、「こんな」ことをしていても「お勉強」に含まれる音楽や図工が好きだった。だって歌ったり楽器を弾いてみたり絵を描いたりノコギリでギコギコしていれば、それで成績表に数字がつくのである。なんて楽なんだと、いつもそう思っていた。とはいえ、そんな教科を嫌がる子供たちもいるので、私の俗にいう「芸術」みたいなものへの興味は、比較的幼い頃からあったということだろう。
幼稚園生の頃から、私は友達と遊ぶよりも本を読む時間を優先させる子供だったが、何故か国語の成績は悪かった。何かを読むというところまではいいのだが、訊かれた質問に決まった「正解」があったせいで(まあ、読解力と天邪鬼な性格の問題だったのだが…)それに当てはまることができなかった。ある程度の年齢になって「成績」への重視が始まると、「暗記」して「方法」を覚えることで点を稼げるようになったものの、国語の質問に答えるということは、私にとってあまりクリエイティブな行為ではなかった。

実家に帰ると、玄関のドアを開けてすぐ右手の壁に、なんとも簡易的な木製の鍵掛けが掛かっている。どれだけ簡易的かというと、歪な四角に切られた板に、手描きのキキとララが描かれてあり、その絵の下の方に何個かフックがついている、という具合だ。これは私が小学生低学年の頃につくった、図工の工作作品だ。あんなにもダサい見た目にも関わらず、いまだ両親があれを堂々と客人を迎える最初の場所で使用していることに驚く一方で、素直に子供としては嬉しい。
両親から愛されていると感じることは多いが、こうして私を含む子供たちの学生の頃の作品を今も大切に使い、時に話をしてくれる時、心底温かな気持ちになる。ゴム印を制作・販売する実家の稼業を継いでいる父と母の店「アツチ印房・ゴム印部」の父のパソコンの横には、私がこれも小学低学年の頃に製作した、粘土で父の顔をつくったペン立てが置かれている。実家の居間には兄が描いた魚の見事な鉛筆画(本当にうまい)が飾られ、店の2階の休憩室には、姉が書いた立派な習字(本当にうまい)が飾られている。こうしてみていくと、私の家族には多少なりの「芸術表現性」があるのかもしれない。大人になった今、兄は料理がうまいし(クラフトもさせればうまいはず)、姉はたまに日曜大工などしているし(料理もうまい)、私はといえば最近は、簡単な家庭菜園を始めたのをきっかけに、1畳ほどしかない狭いベランダをDIYで改造したばかりである(自分でいうのもなんだが、かなりイケている。今もベランダでモーニングコーヒーしながらこれを書いている)。

ハンドクラフトに含まれてもいいと思うのだが、近頃は農業について多く考える機会が増えた。昔から常に関心事のトップに入るテーマなので、より多く考えるようになった、といった方が正しいだろう。それは単純に家庭菜園をもっとしたいから、という明るい理由から来ているというよりかは、今後の未来について考えた時、どうしようもない危機感を感じるからだ。
数週間前に母に勧められ、倉本聡による対談集「愚者が訊く」を読んだ。そこには近年使用されるようになった新型農薬・ネオニコチノイド系農薬の恐ろしさや、世界と日本の農業に対する考えや取り組み方の違いなどなどなどなど、知れば知るほど恐ろしい日本の現状が書かれている。
私の家族は、厚地家最初の孫である姉の長男が生まれつき持っている持病への対処法を探す中で、自然療法(ホメオパシー含む)と出会った(※こちらの投稿も参考にどうぞ)。かれこれ10年以上は前のことだ。その流れの中で自然と無農薬野菜のありがたさを知り、同時に現代の大幅な農業の在り方に疑問(というよりも否定感)を抱くようになった。そして最近上記の本を読んだことをきっかけに、尚更考えるようになったのである。

ハンドクラフトとは何か、というように考えていくと、「アイデア」であり「育てる」ということではないだろうか。そのどちらともが欠けていてはダメで、両方がきちんとバランスを補えていて、その中で生み出されていくものが作品となっていく気がする。それはかなり面倒な作業だ。害虫が出たから農薬を撒いてあとは任せる、というようなことではなく、自分の身の回りにあるものを組み合わせたりして、そこにもハンドクラフトの精神を取り入れて、それにより時間をかけてでも向き合っていくこと。そういうようなものなんじゃないだろうか。先人たちの知識も踏襲した上で、より自分でも何か手を加えて改善できないだろうかと考えてやってみる。失敗と成功を繰り返す中で、新たな歴史をつくっていく。私個人としては、そういうようにものをつくっていきたいと切に願っている。

私の発行しているzine Pursuitのvol.2で、私の大好きなヒップホップグループ Dos Monosの荘子itさんをインタビューさせてもらった。彼はとにかく私のメンターなのだが、彼はその中でこう語っている。

本当50年後の中高生とかが聴いて面白いものを作るのに繋げて欲しいな、っていうくらいしかモチベーションがないっていう

最近、ジョージ・フロイドの件に関しSNS上で起こっている出来事やムーブベントのようなものに、私個人としてノれず、久しぶりにお腹いっぱいになってしまったので、この世界からしばらく離れようと思いアプリも消した。批判するつもりはなくともどうしてもそうなってしまうのだろうが、あの場所で起こっていることは、私にとっては「一時的」な何かにしか感じられなかった。「アイデア」はあっても「育てる」の部分が大きく欠けているように感じたのだ。自己満足でクラフトすることはいくらでも可能だが、私としては先の未来を生きる人々にも「育てる」過程を引き継いでもらいたいと思う。そこまでの力が私にあるかは分からないが、少なくともそういう想いでつくっていきたいという願望はある。いろんなことをみていく中で、年々その点で自分と目にするものとの間に大きな差があると感じることが増えていく。別に私は、自分が上だという話をしているのではなく、そう感じる私がいるから、私は私の方法でやっていくしかないという話だ。正解も間違えもない、私たちは個人個人が感じてやれることをやっていくしかない。本当にそれだけなのだ。

しかしそういう意味で、私を含む現代の人々は、より「ハンドクラフト」していかなければならないように感じている。いや、現代なんて括りではよくないかもしれない。人間は基本的には、常にそうして生きていくべきなのだろう。群として生きる傾向にある私たちは、「同調」により自分の考えを育んだり決定したりする。どうしようもなくひとつの「社会」という括りの中で生きなければならないのだから、それはある程度必要となるのだろう。しかしそれに引っ張られすぎて、「自分という個人は本当はどう考えているのか」が分からなくなってしまったら元も子もない。というか、つまらない。それが正解なのだとすれば、国語の問題のように「暗記すればOK」という、アイデアも何もない世界になってしまう。そんな世界にクラフトという概念は存在できないだろう。過去の独裁者たちは、「クラフト」的人々を排除しようと幾度も試みてきたが、結果としてそれはどこかの時点で破られている。そこには、人間の本質が隠れている。そのことを私たちはもっと、掘り下げて考えてみなければならない。この文脈からいうと、クラフト=反抗とも読めるだろうが、ただ反抗するだけでは何も響かない。そこには個人レベルだとしても、善なる想いがなければならない。
世の中を良くしたい、という言葉があるが、これもやはり曖昧な表現だ。私はどちらかというと、よりバランスがとれた世界になればいいなと思う。世界から悪を消すことはできない。何故ならそれもまた、人間の本質だからだ。冷蔵庫のプリンを食べられてキレる日もあれば、快く譲れる日もある。それが人間だ。その中でより穏やかな日を増やせれば、その時人生(つまり比喩的に社会)は、今よりも良くなるんじゃないだろうか。

…云々、結局また何やらまとまりもなく、テーマに沿っているかも定かでない内容になってしまったが、今日も私なりに先に残せる何かをつくるべく、シコシコと自分のつくりあげたベランダでパソコンに向かい、ハンドクラフトしていくのだった。

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