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(創作大賞2024)大正浪漫チックな花嫁は恋する夫とお勉強がしたい【第二十九話】

「櫻子、大丈夫か?」

 優しく私を抱き寄せ、背中をさすってくれる。

 絵に描いてもらうために着た、お気に入りの京友禅ゆうぜんの袖が、いつのまにかあふれた涙で濡れていた。

「藤孝様……征之介様は、大丈夫ですわよね?」

 自分で首を切った女性が亡くなったと聞いて、自然と身体が震えてしまって止まらない。

「大丈夫、あの征さんが死ぬはずない」

 力強く私を抱きしめて、藤孝様も少し震える声で、だけどしっかりと言い切った。

 川で死のうとしていた征之介様は、運よく私と出会って助かったのだもの。
 きっと今度も……すぐにお医者様に診ていただいたし、ツキがある。
 征之介様は、きっと助かるわ。

 温かい藤孝様の胸の中で征之介様の笑った顔を思い出した私はそう信じ、願ったのだった。

ーーーー

 暮れも押し迫った寒い日。

 消毒のツンとした匂いが漂う廊下を、藤孝ふじたか様と一緒に歩く。

 薄暗い廊下の先の個室からは、女性の声が響いていた。

「きゃあ、せいサマったら、本当にご冗談ばっかりね」
「まあ、あなたに仰ったんじゃなくってよ、征様は」
「今度はわたくしが、征さまの脈をとるんですからねっ」

「順番にしたらいいよ、俺は一番優しくしてくれる看護婦(※看護師)が、好きだよ」

 キャーキャーと、黄色い声が飛び交っている。

 ドアの前で立ち止まった私と藤孝様は、ため息をついて顔を見合わせた。

 顔を見なくても、お元気そうだわね。

 
 渋い顔をした藤孝様が、咳ばらいをして、ドアをコンコンと叩く。

「はい、どうぞ」

 ドアを開けると、白い制服を着た看護婦たちが、征之介せいのすけ様の寝台(※ベッド)の周りで、殺気立った不審な目を向ける。

 だけど、スラリと背が高く小作りな顔と、爽やかな男らしい一文字眉に知的な瞳。上品な唇をキュッと結んだ美男子で、そのうえ、天下の東京帝国大学の学帽をかぶった藤孝様を見ると、みんな途端に顔が色めきだった。

たかちゃん!」

 看護婦たちの中心で、半身を起こしている征之介様も、嬉しそうに微笑む。

 私は藤孝様の後ろから前に歩み出て、藤孝様のコートを掴んでぴったりと寄り添い、にらみながら女性たちを牽制けんせいする。

 藤孝様は、私の夫なんですからねっ!

「わぁ、若妻まで、会いに来てくれたんだ。
 君たち、少し席を外してくれるか?
 また婦長の目を盗んでおいでよ、ね?」

 怪我人のクセに、色気を振りまき、魅惑的な微笑みを浮かべる征之介様は、相変わらず美しい。

 看護婦たちは、嬉しそうに征之介様に「また来るわ」などと言いながら、病室から出ていった。

「征さん、また刺されますよ。 いい加減にしたら?」

 心底あきれたように学帽を取りながら、藤孝様は寝台の脇に置いている椅子に腰かけた。

「そうなったらまた、看護婦だらけの女のそのに入院するだけさ」

 フッと笑って、征之介様は痛そうに脇腹を抑えながら、寝台の上で姿勢を整える。

 本当に、征之介様が死ぬわけないのかもしれない。
 すごく心配して、流した涙を返して欲しい。

 私と藤孝様は、顔を見合わせると、同時にため息をついて笑った。

 この東京市(※現在の東京都)でも一番の大きな病院に、一井家の自動車で運ばれた征之介様は、刺された部分の手術を受け、あれからひと月たった今も入院している。

 幸い、順調に回復しているらしい。

「あの時の女とは、幼なじみで……俺が初めて情を通じた女だったんだ」

 征之介様は、美しい顔を窓の方へ向け、遠くを見た。

「彼女は名家めいかの生まれで、俺と昔から仲がよかった。
 そしてお互いに年頃になり、初めは興味本位から、身体を重ねるようになった」

 世間には、征之介様が刺されたことはおおやけになっていない。
 もちろん征之介様とその女性の関係のことも。

 征之介様のご実家の松原公爵まつばらこうしゃく家と、実は高貴な身分であった女性の家と、そして一井いちい家の総力を持って事件を隠蔽いんぺいした。

「俺と関係を持ち出した頃から、彼女は神経衰弱すいじゃく(※うつ状態になったり精神的、身体的な症状がでる病気)をわずらい始め、すでに決められていた彼女の縁談話は破談になった」

 静かな声で話しながら、長い前髪をかきあげる。
 きれいな切れ長の瞳が、後悔に揺れていた。

「俺は年下だった彼女と、時々隠れて会っていたんだ。
 当時、お互いに惹かれあっていて、会わずにはいられなくて。
 破談になったのは、俺にとっては好都合で、いずれは夫婦めおとになりたいと密かに夢見ていた。
 でもある時、家の者に逢瀬おうせを見つかってしまって、会うのを禁じられた」

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