(創作大賞2024)大正浪漫チックな花嫁は恋する夫とお勉強がしたい【第十九話】
「本気で死のうと思うやつが、あんな浅くて流れの遅い川を選ぶと思うか?」
スケッチブックから、少し顔を出し、切れ長のきれいな左目で見られる。
声の調子は私をからかっているのに、その目は空虚さに満ちて、笑っていない。
私はドキリとしたのを悟られまいと、少し不愛想に答えた。
「存じ上げませんわよ。
ワタクシは、本気で死のうと思ったことなど、ないのですから」
「そうだろうな」
征之介様は、ご自分で聞いておいて、私の答えがわかっていたかのように相づちを打つ。
「一緒に死のうと言っていた女が、本気かどうか試したかったんだ」
小さくため息をついた征之介様は、またスケッチブックに隠れて、私からは表情がうかがえない。
「愛していると俺に言うので、『じゃあ、一緒に死ねるか?』と問うたら、簡単に頷いた」
征之介様は、低い声に自虐的な響きを持たせて、顔を隠したまま続けた。
「それなのに、その女は約束の時間に来なかった。
愛情がない証拠だ」
征之介様は、おもむろにスケッチブックと鉛筆を、そばのテーブルに置き、再びそのきれいな顔を私に見せる。
「後で夫に見つかってしまったと手紙が来たが、結局は俺を愛していると言ったのは、その場限りのでまかせ(※ウソ)だったんだ」
……ん?
夫に見つかった?
あの川で一緒に死のうとしてたのは、ご結婚なさっている女性だったの?
私は眉をひそめてしまった。
だけど、あの川で見た時のような、儚げで退廃的な無表情に何も言えなくなる。
家柄も良く、天に与えられた素晴らしい才能を持ち、容姿にも恵まれているのに、どうしてこの方はこんなに満たされていない顔をなさるのかしら?
「この世は愛なんてない。あるのは無情だけだ。
俺が欲しいと思うものは、手に入らない」
話ながら立ち上がり、征之介様はソファーに腰かけている私の所まで近づいてくる。
「全てがどうでも良くなって、俺は川に入ってみたが、天女のような顔をした君が、なりふり構わず俺を止めようとして……」
先程までの笑顔を消して近寄ってくる勢いに、私は怖くなった。
さっきから「動くな」と何度も注意されていたのに、思わずひじ掛けから身体を起こし立ち上がろうとする。
だけど、すばやく隣に座った征之介様から手を引かれると、耳元でささやかれた。
「君が、この大財閥一井家の、御曹司の妻であることは承知の上。
だが、どうしようもなく、君に惹かれてしまう。
俺と秘密の恋をしないか?」
「ひ、秘密の恋……?」
征之介様は、私の手を握ったまま魅惑的なまなざしで見つめる。
美形に弱い私は、『秘密の恋』なんて甘美な響きに、一瞬クラリとよろけそうになってしまう。
女学校でも、秘めたる恋心とか、密やかな逢瀬(※デート)などが、ロマンチックで素敵だと、友達同士で話しては憧れていた。
良家の子女ばかりが通う女学校では、将来結婚する相手が決められていたり、高貴な方に嫁ぐために、一度も恋をしたことがないのが大多数。
胸を熱く焦がすような恋愛を、一生に一度くらいはしてみたいと、夢のように語っていたのだ。
まさに家柄同士で、決められた結婚をした私に、憧れが急に現実に降りてきて、ドキンと心臓が鳴る。
結婚して、淋しい気持ちを抱えている今の私。
突然のイケナイ誘いに、私の胸の早鐘がうるさく鳴るのは、この密かな悩みが手伝っているみたいだ。
藤孝様は、私に触れてくださらない……。
苦しい、もどかしい恋心と、淋しさが混ざり合う。
秘密ならば……。
藤孝様にバレなければ……。
征之介様は、所々鉛筆で黒く汚れた手で、私の右手をとる。
お気に入りの京友禅の袖口から少し見えた手首の内側に、優しく口づけられた。
肌の柔らかいところに、当てられた唇に、思わずゾクっと感じてしまう。
「あっ……いけませんわ」
瞬間的に手を引こうとした私は、逆に征之介様に引っ張られ、その胸に抱きしめられた。
強引な抱擁と、かすかにかおる香水。
舶来の香水かしら?
いい香り……。
つい、うっとりと身を任せてしまう。
手慣れた感じで頬を撫でられ、見つめあった。
長い前髪のすき間からのぞく、きらめくようにきれいな二重の瞳は、青年の色気が漂っている。
思わず酔いしれてしまいそうなほど、私は甘い雰囲気に包まれた。
冬の始まりの柔らかな日差しが、サンルームいっぱいに降り注ぐ、明るい部屋の中で、夫ではない男性の胸に抱かれている。
イケナイことをしているドキドキと、美しい征之介様の、私を射抜こうとするかのような熱い視線に、私の心悸は激しくなった。
「櫻子」
低く響く声でささやき、私の髪のなかに指を差し入れて、口づけを迫られる。
その場慣れしたよどみのない動作に、いつもとは違うと感じた。
たどたどしく私に触れ、優しく抱きしめてくれる藤孝様と違う。
少しも着崩さずに、きっちりと洋装を着こなされる藤孝様と違う。
流行の香水なんて興味なくて、本やインクの匂いが染みついている藤孝様とは……違う。
『櫻子さん』と、穏やかに呼んでくれる藤孝様の顔を思い出す。
大島紬のしっかりとした織りを握りしめ、私はハタと目が覚めた。
待って! ダメダメっ。
私が好きなのは、藤孝様だわ。
秘密の恋なんてしなくても、私は藤孝様に恋をしているの!
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