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わたしは朝起きられない

その理由は明確である、夜ご飯を食べるのが22時、風呂に入るのが23時半、床につくのが25時過ぎ、しかも昨日はそれから本を開いてしまったので25時半くらいにやっと電気を消したような感じだ。翌朝、8時のアラームが鳴るが、体がだるくて起きたくない。近所で新築の家を建てる工事が始まっていて、バスが通っていく振動と重油の匂いがする。ああ起きたくない。小鳥にはわるいがケージのカバーだけとってわたしはふたたび布団に入ってしまう。二度寝から起きたときにうっすらと後悔の念がみぞおちのあたりをぐっとさしてくることはわかっているのに眠くて仕方ないのだ。

ところで、昨日すこしTwitterに書いたことをここでも簡単に書き留めておきたいと思っている。

自分の作るものが他者からの評価に耐えうるものになるのかを考えながら作るのではなく、自分のなかのダムをいかにして放流するか(させるか)が、作るうえでまず最も重要なことなのだなあとしみじみ思う、意義や意味にとらわれていると自分という小さな枠を超えることができない。

自分のなかのダムをいかにして放流するか/させるかについて、先日受講した千葉雅也さんの授業がとても印象的だったので書いておきたくなったのだ。

なにかものを作るということにおいて、自制的な、規範的なわたしの思考がものの誕生の邪魔をしてくることがしばしばある。わたしのなかに渦巻く感情や物語が出口を求めてくすぶっているのだが、そのときの自分の調子によってそれらを解き放つことができたり、できなかったりすることがあり、そのたびに自分の心をなだめすかしながらなんとなくやりすごすしかなかった。

けれど、作るとは、初めから大きな、完璧な建物を作ろうとするのではなく、ひとつひとつの短いテキストを重ねていくことで相互補完的に育っていく物語を見守り、剪定していくことでよいのだ。契機となる短いテキストは本当にささやかな、断片的なもの。その種火は集まって大きくなるものもあれば、単独でどんどん勢いを増していくものもあるし、別の物語ゆえに今回は用いないということもあるのだけど、短いフレーズやテキストが日常的に浮かびこそすれ、大きな物語など書けないと思っていた自分の思い込みがきれいさっぱりなくなってしまった。

何かを作る、という言葉のはらむ意味はとても広やかなもの。わたしにとってはいまのところその「何か」は言葉や絵を指すのだけど、このささやかな建築方法は個々人によって形を変えて適用することができそうだな、と思った。自分の力不足と思って諦めていたことが、本当は自分の設けたハードルによって阻まれているだけだと知ったとき、なんという晴れやかな気持ちになるのだろう。そしてこういう発見は他者からその契機がもたらされるものなのだと思う。

いつもお読みいただきありがとうございます。いただいたサポートは、これからの作品作りに使いたいと思います。