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コロナにて②

コロナに罹患してどうしたものかと思っていたけれど、数日しっかり休んでだいぶよくなった。
あとは咳が落ち着くのと、体を外気に慣らす段階かなあという感じ。

仕事のことはいったん横に置いておいて。をしたことで頭のなかが新しく動き始めたのでいろいろメモをとったり、また横になったりをしている。今日は散歩へ出て桜を眺められたのでとてもよかった。足元の小さな花たちも元気いっぱいで、歩いているだけで無数の生命の発するパワーにぐいぐい背中を押される。

春ははじまりはなんとなくさわやかだけど、だんだん押しが強くなっていってこっちがまいってしまいがち。植物の勢いはもちろん、虫も一気に動き始めるし、鳥もそこらじゅうでさえずって求愛してるし、始まり感がすごい。4月が新年度のはじまりの月というのは、体感としてあまりにもしっくりくる。自分を取り巻く世界のそこかしこで「始まるしかないだろう」という圧力にさらされるんだから。

遅く目を覚ました子のように元気100%で迫ってくる春。こっちは冬のあいだもずっと起きていて、葉を落として寒々しく眠っている植物たちが死んでいないかとずっと気にかけてきたというのに…。

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最近なんとなく調子が出なかった。つかれているし、やるぞ!という気持ちがわかないし、なんとなく心にうっすら憂鬱の雲がかかっていてなかなか晴れない。もしかしたら早めの更年期なのかも…と真剣に考えて、調べているうちに憂鬱な気持ちがさらに濃くなったりして。

結局のところその原因ははっきりとしなかった。複合的なものだろう。ただ、数日休んでいてふと、いまの自分にとって体験が必要なのかもしれないと思った。

視覚だけでなく五感で体験する何か。それはなんでもいいと思うのだけど、いままで「引きこもって仕事していること」がよいことで、「ふらふらと遊びにいくこと」がよくないことのように思っていたから、散歩以外の外出の機会はかなり減っていた。締切前に外出しているとなんとなく罪悪感も感じる。

たまには仕事関係なくひとと話したいし、いろんなことを試してみたい。そういう気持ちがずっとある。でも外に出るのが億劫で仕方なかった。出かけると調子を崩すことが増えたことも外出の億劫さに拍車をかけた。

けれど最近の自分の憂鬱は体験の不足と、インプットの不足が大きな要因としてあったのかもしれない。あまり本が読めなくなっていたのに休んでいるあいだはなぜか本を読みたくなったり、気づいたら本を何冊も買っていたりしたのも、体験に準じた何かを欲していたからなのか…と思う。

自分のバランスの取り方はむずかしい。社会における自分のバランスと、一人の個人としてのバランス、それは絶妙にからみあっていて、けれどその質は異なるものだから、自分の意思ひとつでかんたんに解決できないことがあるのも当然だ。できないことを責めなくていいし、どうしたらいいかわからない自分を悲しまなくていいのかもしれない。じたばたしているうちに気がついたらバランスがとれているようなものなのかもしれないから。
今日はそんなリハビリ代わりの日記。

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