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個展についてすこし書きます

ラフを描こうとカフェに入ったのはいいが、鉛筆を忘れてしまったことに気がついた。あたたかい珈琲はマグにたっぷり入っているし、このまま帰るのももったいないのですこし今度の個展について書こうと思う。

先日までSUNNY BOY BOOKSさんで「夜も川は流れている」というタイトルの個展をしていた。冬の14行という詩とともに冬から春へうつりゆくなかでの夢のような手触りの絵を展示した。あわい、うつろい、やわらかい、形になる前、さまざまなイメージがあった。

絵は、特に個展で展示する作品は、自分自身の生活実感と地続きだ。季節のうつろい、日々生まれる感情、誰かとのこと、誰かのこと、住んでいる町や国や世界のこと、小さなものから大きなものまでわやわやと揺れ動くわたしの世界のなかで、見たり、感じたりしたものを描くことこそが、自分の個人制作として意味がある。そう思うようになった。だから表現方法もそのときどきで変わっていく。

いま思うとはじめての個展からそういうことはおこなっていたような気がするけれど、いまはそのときよりもはっきりと、自覚的に描く/書くものはなにかを考えるようになったとは言えるのかもしれない。

ほんとうに、いろいろわからないことだらけだ。わたしがはっきりとわかるのはいまの自分の感覚だけ。わたしの灯台はわたし自身であって、それに照らされて浮かび上がる色や形はいまの世を生きるわたしが見た何かのうつくしさであってほしい。

うつくしさは神のように汚れのない聖なるものではない。もっと自分自身に近いささやかななにかの痕跡、息遣いであって、それを細やかにとらえたいと願う。そこにある世界は圧倒的に広やかで大きく、わたしの力はとうていおよばない。だからこそつねに畏怖を持ってそのなかの何かを描きとめていけたらいいのだけど。紙の上でだってうつくしさは立ち上がるのだから、それを織るようにすこしずつ進めていけたらいい。

今回の個展では春の詩と初夏の詩を準備している。初夏の詩はまだなにもできていないけれど、春の詩をあとで読み返したときに、それを書いた自分を不思議に思った。自分の知らない自分のいることで、人生は推し進められてゆく。

今回の個展では、生演奏の音楽とともに朗読することも決めてしまった。人前で何かをするのは恥ずかしい。緊張する。自己紹介ですら動悸がするのに、どうしてかやりたくて仕方ないのだ。

言葉を、文字だけでなく自分の実存とともに伝える。言葉が音になり、音楽になり、輪郭をうしない溶けていく光景を想像する。そんなふうに、いま、この場で表現するということを、なんらかの形でやってみたいとずっと思っていた。それは肉体を持つわたしの責任のようなものだと。今回、縁あってその機会を持つことができて、心からうれしく思う。そういうご縁ができることも、2018年には考えられなかった。自分の能力を超えた、頼れるひとたちのいるということ、なんと心強いことだろう。

季節のギアは春からさらにひとつ上がり、初夏へ進んでいく。まぶしい季節の中でひとの営みも節目を迎え新しい世界へ移行しようとしている。具体的なことは絵に、詩に託したいと願うのでここでは書かないけれど、展示はいつも平和なようでいてその実なにかの戦いのようだ、と思う。血を流すのは体だけではないのだ。

いつもお読みいただきありがとうございます。いただいたサポートは、これからの作品作りに使いたいと思います。