長野パラリンピック調査での気づき(9/100)
こんにちは、まえゆかです。
レギュラーで参加している渋谷のラジオ「渋谷の体育会」でこのnoteについてお話しました。
いつか、このマガジンの中でも「渋谷の体育会」について触れたいと思っているので乞うご期待。
「渋谷の体育会」の音源はすべて公式noteで公開されているので、ご興味のある方はこちらから!
前回は、研究員時代に父と私の仕事が初めてリンクした時のことを書きました。
まだもうちょっと、研究員時代のことも書きますのでお付き合いくださいね。
長野パラリンピック調査
競技場のアクセシビリティの調査の後に担当したのが、長野パラリンピックのレガシーについての調査。
この論文は研究会の代表が書かれたので、私は下調べだったり現地調査のサポートなどをさせていただきました。
代表が書かれた論文はこちらからご覧いただけます。
長野パラリンピックが開催されたのは1998年。
当時小学生だった私も、うっすらとオリンピックのスキージャンプやスピードスケートの盛り上がりを覚えています。
おそらくその頃に「パラリンピック」という名称も聞いていたような気がします。
でも、競技のこととかは・・・全然当時の記憶に残っていませんでした。
長野に行って
2泊3日の旅程で代表と一緒に長野パラリンピックに関連する施設の見学や関係者へのヒアリングなどを行いました。
長野駅前って、どどーんと当時のエンブレムが飾ってあるんですよね。
2015年の3月に初めて長野駅に降り立って知りました。
長野駅からほど近くのエムウェーブ内にある長野オリンピック記念館(現長野オリンピックミュージアム)にも行きました。
ちゃっかりと開閉会式の挨拶気分も味わってますが、ちゃんと仕事もしてます。笑
施設内には、アイススレッジスピードレースの用具なども展示してあり、コンパクトな施設ですが当時のことを知ることができる施設です。
長野に訪れる機会があれば、ぜひお立ち寄りください。
ヒアリング・ヒアリング・ヒアリング・・・
長野オリンピックは「一校一国運動」といって、その後、他の開催地にも伝播するような形で広がった児童・生徒の参加型の企画が生まれた大会だったのですが、その他にも「一店一国運動」というのも会場近くの地域で開催されていました。
大会を盛り上げるべく様々な企画に取り組んだ方々にリアルなお話をたくさん伺いました。
もちろん、パラリンピックについてもたくさんヒアリングをさせていただきました。
特に当時の組織委員会での運営をされた方々のお話は、インパクトがありました。
1985年ごろからオリンピックの招致活動が始まり、1988年に招致が決定していますが、この1988年はオリパラで同じ地域で開催することが合意されたタイミングでもあります。
つまり、招致関係者はオリンピックの招致は念頭に入れていたけれど、パラリンピックの招致はそこまで考えられておらず、いざ招致が決まったところで開催にあたって検討できていない部分が多くあることに気づいたようです。
だからこそ、当時どんな大変さがあったとか、実際にご担当されていた方々のご苦労をお伺いし、当時のことをリアルにイメージすることができました。
特に、当時は組織委員会がオリンピックとパラリンピックで別だったために、資金集めなどの面で苦労もあったようです。
東京大会はオリンピック・パラリンピックが同じ組織委員会で運営されていますが、実は同じ組織でオリパラの両方を開催したのって、世界中でもこの2020年の東京大会が初めてです。
あれだけ盛り上がったと評価されているロンドンのパラリンピックも、組織委員会自体は別組織。
この辺のすごさって、実はスポーツ関係者以外にはほとんど知られてない。
「何がすごいの?」って思う部分もあるかもしれない。
そのあたりのことも話していきたいのだけれど、話が飛び飛びになるとわかりにくいので、今回は長野調査のことに戻します。
アートパラリンピック
ここ数年、障害者のアート活動をメディアなどでも目にする機会が増えてきましたが、長野パラリンピックの際にも、実は障害者のアート活動が注目されるイベントが開催されていたのです。
聞いたことある方は少ないかもしれませんが、当時長野パラリンピックの際に、社協の方々や地域の方などを中心メンバーとして企画されたイベントです。
長野パラリンピックの少し前の3月1日~14日の間、芸術祭、公募展、街角ミュージアムなどを開催しており、障害のあるゴスペル歌手の方が善光寺で歌を披露したりと、まさか20年も前にそんなイベントを長野でやっていたなんて…!!と驚く企画内容。
当時のヒアリングの記憶もだいぶ曖昧になっているので、詳しい企画内容にご関心がある方は、アートパラリンピックがどんなものだったのか気になる方は、以下サイトをご覧ください。
こちらで記事を執筆されている内山二郎さんに当時もヒアリングにご同席いただきました。
やはり、見ないとわからない。
立役者の方々からヒアリングをし、当時の自分が小学生だったとはいえ、全然知らなかったプロジェクトや盛り上がり、ご苦労などを聞いたことで、パラリンピックという大会そのものへの興味はさらに湧きます。
ただのスポーツの大会じゃないんです。
付随して、交通が整備され、観戦がしやすくなるように設備が変わり、メディアに取り上げられることで知る人がさらに増え・・・盛り上げるために学校や商店街など地域のあらゆるところが動き出す。
オリンピックだけでもきっとパワーはありますが、バリアフリーや他の障害者の活動にも目が向くのは、やはりパラリンピックの力。
当時の大会を観た方々のお話は、20年近く経ったその時でもとても熱を持って話されていいました。
それだけ、人の心を熱くするものなんだ。
同時に、当時やりきれなかったこと、反省点なども伺っていくと、自分では想定もしていなかったところの課題感などに触れたりもします。
健常者の世界で当たり前に生きてきてしまった私には、障害のある方々の暮らしも、スポーツの世界も何も知らないから。
着眼点自体が違うというか…自分の経験値の少なさを痛感します。
川内先生との調査などで練習会場や、施設としての体育館には数多く足を運んでいましたが、パラスポーツの大会をこの目で見て、もっとパラスポーツに取り組んでる方々のことを知らないと、何を2020年に向けて改善したらよいのか、課題設定を誤ってしまいそうだなという課題感を抱いたのは、この出張の一番の成果かもしれません。
やはり、これは直接経験してみないと、わからないなと…
研究を通して、パラスポーツやパラアスリートに触れて、徐々に興味が湧きつつありましたが、長野パラリンピックについての現地調査をきっかけに、「もっと試合を観に行くぞ!」という気持ちにシフトします。
その後、私は研究員としての調査名目ではなく、自己研鑽的に試合の情報を入手しては現地に足を運ぶようになったのでした。
そのあたりのことは、また今度。
次回あたりから、車いすラグビーのことに触れだすかも。
余談
長野出張の際にオリンピック記念館で購入した長野パラリンピックのマスコット、パラビットの人形。
3月9日の生まれたばかりの姪っ子へのプレゼントとして、3月17日に渡しました。
生まれて8日でパラビットに触れる姪っ子。
この後、リオパラリンピック、平昌パラリンピック、東京パラリンピックでもそれぞれパラリンピックのマスコットグッズを姪っ子にプレゼントし、「パラリンピック英才教育」をスタートします。
いや、平昌は行けなかったのでお土産にバンダビ(黒い熊のマスコット)のぬいぐるみと小さいぬいぐるみ付のキーホルダーをもらっていたのですが、当時2歳の姪っ子に欲しいと泣かれて半ば強奪されるようにキーホルダーを渡したんだった…w
8歳になった姪っ子は、先日の東京体育館で開催された車いすラグビーアジア・オセアニアチャンピオンシップでもあリーン専用の赤いTシャツをを着て「いーけーざーきーーーー」と叫んでおりました。
英才教育、成功かな。笑
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