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橘の実 有料

3.浮気疑惑と陰謀

 年が明けて朱鳥十四年(六九九年)になっても三方沙弥が咳込む事がやまなかった。だが万葉は「犬はくしゃみをするけれども、人は咳をするのね」とのんきに構えていた。それよりも、もっともっと、夜を楽しみたい。せっかく夜が長くなったというのに、一緒にいられる時間が長くなったというのに、通ってこないなんて許さないわ、と無邪気に笑っていた。そして、とうとう三方沙弥は寝ついてしまった。万葉は大慌てである。園臣生羽にも、坊主が髪結い(成人式)に付き添うとは情けないが、でも仕方なかろうと許されていて、とりあえず髪が伸びるのを待っていたところなのだった。心配で心配でいてもたってもいられずに寺を訪れても、今は養生が一番大事だと門前で追い返されてしまう。泣きそうになっているところに一人の若い坊主がこっそりと忍び寄ってきた。
「お坊様。三方沙弥様はどうなのでしょうか。相当お悪いの?」
 髪も梳かずに垂らしたままであっても、夜に散々磨かれたおかげか、輝くような婉然とした美しさを万葉は得ていた。
「万葉。お前が拙僧の願いを聞き届けたら、こっそりと三方沙弥にあわせてやろう」
 下卑た笑いを浮かべてその坊主は言ってよこした。万葉はしかし女になっていたのである。その辺り、何を言われるかはすっかり分かってしまっていた。
「結構です。三方沙弥様がご養生されるのにあたしが邪魔してはお体に障るわ。帰ります」
 と、すたこらさっさと逃げ出した。ちっと舌打ちをしたその若い坊主は、三方沙弥の様に女にだらしがなくてこの寺へいれられたのだった。
「なんて貞操観ガードが固いんだ」
 と呟くと、ふと名案がひらめいたようだった。悪知恵だけははたらく本当にどうしようもない若い坊主だった。
 三方沙弥のいる橘寺の中にひっそりとこんな歌がささやかれだした。
「この橘寺で一緒に寝た童女はもう成人式をして髪を綺麗に結い上げている事であろうか(橘の寺の長屋に我が添寝し童女放髪は髪上げつらむか 巻十六・三八四四)」
 それは病に臥ふせっていた三方沙弥の耳にも届いた。
 三方沙弥は信じられないと思う反面、有り得ると感じた。あんなに夜が大好きな万葉が寺へ自分会いたさに来ていた事は知っていた。そこへ誰かが誘ったら、万葉は簡単に体を許してしまうんではないだろうか。この寺には俺のように女グセの悪いのがたくさんいる。どこのどいつだろうが、万葉だけは渡さない。万葉は俺が開花させた女だ。その花の甘い汁を啜るのは俺だけだ。なのに、あの花は他の男に体を許したんではないか……そんなことは思いたくもない。あんなにあどけない童女なのに、夜だけは大人だと知っているのは俺と俺が話した藤原房前だけだ。その他の男が大人の万葉を知ってはならない。そして味わえるのは俺しかいない。俺だけのモノだ、万葉は。
「おい、万葉。三方沙弥が歌をよこしたぞ」
 万葉は嬉しそうに受け取った。
「お父様。あたしは字を読む事は出来ないの。読んでちょうだい」
 本当に甘えただなぁと、まんざらでもない調子で園臣生羽は歌を読んで聞かせてやろうと思った。が、その内容にぎょっとした。万葉には……他に男がいるというのだろうか……夜、出歩いてはいないし通ってくる男もいないと思っていたが、この歌にはそう匂わせてあるではないか!(くくってはほどけくくらないでおくには長いあなたの髪はこのごろみていないですけれども櫛を通してなどいないでしょうね?(たけばぬれ たかねば長き妹が髪 このころ見ぬに掻き入れつらむか 巻二・一二三))
 でも、確かに万葉にはこのままだと恥だから髪結いだけでも済ましてしまおうとは説得していた。だが、頑固な万葉は「次の逢瀬まで、髪は梳かないものだ」といいはって、本当に汚きたならしい髪の毛になっている。この状態で他の男がいるとは考えづらい。それで、ねぇねぇと急かす万葉に歌を読んで聞かせてやった。そしてすぐに三方沙弥の杞憂きゆうであるから安心させなさいと、歌を渡してやるから早く詠めと言った。わかったと万葉は歌を詠んだ。
「周囲の大人は皆して長くなったんだから成人式だけ済ましてしまおうというけれども、あなたに抱かれた時撫でられたこの髪はどんなに乱れてもそのままにしておきます。浮気なんてとんでもないですよ(人皆は今は長しとたけと言へど君が見し髪乱れたりとも 巻二・一二四)」
 なかなか上出来でしょ、と胸をはる万葉の横で園臣生羽は大急ぎで書き留めて、橘寺へ使いを「大至急だ」と言い含めて出した。そして通ってくる男がないように念には念を入れて警護を屋敷の中ですらも万葉につけた。その警護の者は勿論女である。警護の者とできてしまっては何にもならないとの判断であった。
 この騒ぎの発端の歌はもちろんの事であるが、万葉にすげなくされた若い坊主である。密かに噂を流し、二人の仲を引き裂いて美しくなった万葉を手にいれようとしていたのだ。
 万葉の歌を受け取った三方沙弥は、自分自身が遊んできた故に女を信じきれないところがあった。だから、逆に絶対にないといわれてしまうとあるんではないかと思ってしまうのだった。でも、万葉はまだ童女だ。だが、美しさは日増しに輝くばかりになっていくとも聞く。それはやはり、毎夜誰かが万葉を開発している証拠なのではないだろうか。俺がしたように、万葉を美しく磨いていく遊び人はいくらでもいるだろう。もしかしたら、昔の悪い遊び仲間かもしれない。しかし、あれだけ純粋に自分の身を心配して訪れてくる万葉が浮気するとも思えない。だが、成人式をしろと周りから言われていると歌には織り込んであるではないか。それくらい、長い間会っていないのだ。最初はあんなに髪が短かったのに、あいつはスケベだから髪が伸びるのが早かった。俺が病に倒れる直前までは、まだ結ってもずるずるとほどけてしまっていた。でも、今はきちんと結えるほど伸びたという事だろう。会ってみれば分かるんだ、きっと。疑心暗鬼にかられてしまって……会いたい、万葉。なのに、会えない。会いたい。会えない。ああ、気が狂いそうだ……
(橘の蔭踏む道の八衢に物をぞ思ふ妹に逢はずして 巻二・一二五)
 と文を書いて送った三方沙弥だった。かなり混乱している様は万葉にも伝わった。
 三方沙弥様はあたしに会いたいと思っているに違いない、だから、お願いだから会わせて下さいと、いくら寺を訪ねても追い返されてしまう。ますます万葉の不安は募る。病状が悪化しているのではあるまいか、どんなに苦しんでいるであろうか、会いたい……本当に会いたい!
 その頃、文武天皇が噂を聞きつけて、園臣生羽を特別にこっそりと呼んだ。初めて御前に出て恐縮している園臣生羽に文武天皇はお前の娘はたいそう美しいと聞くが本当かと訊ねた。園臣生羽にはピンと来た。文武天皇は万葉を召し上げる気なのだと。
「どちらの方から、その……うちの娘が美しいとお耳に入られたので?」
「藤原房前殿だよ。彼が夜の伽には最適の娘だと耳打ちしてくれてね。祖母の太上天皇も母の阿部皇女も朕の子を望んでいる事だし。それに、一度味わってみたいものだ、鄙ひなの娘もたまにはよかろう」
 これは出世の機会チャンスだと園臣生羽は思った。
「しかし……髪結いもまだの者を夜伽させるわけには……」
「かまわぬ。今度の梅見の宴に連れてくるがよい。それまでに髪結いをすませておけ。わかるな?」
「ははっ」
 平伏するしかなかった。だが、園臣生羽にとって、ふってわいた機会だった。今までただ庭を整えるだけで、これ以上の出世の見込みはないと思っていたが、頑張ってきたかいがあったものだ、やっと報われたという気持ちであった。これで万葉が文武天皇の目に留まり男の子を産めば、自分が次の皇子の祖父となる事が出来る。それは今まで夢にすら描いた事のない、果てしもなく途方もない上の世界の者が見る夢だった。
 屋敷に帰った園臣生羽は嫌がる万葉を縛りあげ、猿轡さるぐつわまでかませて、無理矢理に髪結いの儀式を済ませてしまった。万葉には涙を零こぼす以外、何も出来なかった。悲鳴すら出せず、鳴咽おえつだけが洩もれた。
(父上は変わってしまわれた。何故……会いたい。三方沙弥様に会いたい!)
 しかし、髪を結い上げ、着飾らせて部屋に閉じ込められた万葉がどんなにわめいても泣き叫んでも、園臣生羽は「どんなことがあろうと部屋から出してはならない」と言い含めて、夜明け前に着古した浅緑の衣を鞄に詰めて嬉々として出仕していく有り様で、家人は万葉を気の毒に思えどもどうすることもできずにいた。万葉は事実、美しかった。泣いて目が腫れ上がり、わめいていて声がかすれていても、それでも艶めかしく匂いたつような色気があった。家人は万葉はこのまま朝廷で可愛がられてしまうのだと思い込んでいた。三方沙弥と一緒になるには文武天皇が飽あいて下げ渡してくださるのを待つしかない、としか言いようがなかった。そんなのは嫌だ、三方沙弥様以外にはこの体は許さない、とつっぱねる万葉にも、絶望が覆い被さるようになってしまった。何故か。
「別々の場所で離れてしまって逢う事も出来ないのだからあなたもわたしも恋しいと思わずにいましょう(衣手の別くる今夜ゆ妹も我れもいたく恋ひむな逢ふよしをなみ 巻四・五一一)」
 との歌が三方沙弥から送られてきたのだ。園臣生羽は飛び上がらんばかりに喜んでそれを万葉に読んで聞かせ、字の読めないあたしを騙しているんだ! とつっぱねる万葉に、その紙を家人で字の読める誰に読んでもらえ、と手渡した。万葉が家人の字を読める者を片っ端からあたり、読んでもらうと、きちんと一言一句違わず同じように読んで聞かされた。
 違う。家人は父の言いなりなのだ、嘘を言わされているだけなのだ、と思い込もうとしても何人もの違う声で同じ歌を聞かされていると全ての人がそう言っているような気になっていく。
 何故こんな文が届けられたのか?
 藤原房前が文武天皇にあらせられては万葉を召し上げたいとおっしゃっているがどうする? と三方沙弥を見舞って言ったのだ。三方沙弥は他の男には渡さないと、たとえそれが天皇であろうとも、と文を渡して頼んだ。そして
「……房前。お前と俺では身分も違うから頼める事ではないのだが、昔、一緒に遊びまわっていた事を覚えているなら……本意ではないと……できるなら一緒に逃げたいと言伝てくれ……今夜迎えに行くと」
 と藤原房前に文と一緒に言葉を託したのだった。しかし、言葉は万葉には伝わらなかった。藤原房前にも野心はあった。園臣生羽にも野心があった。二人はその野心で繋がった。そして、何の野心もない恋心だけがある万葉と三方沙弥の間には障害があった。繋がっているべきなのは万葉と三方沙弥なのに、壁があって繋がれなかった。余りにも性急に繋がりを持ち過ぎた報いなのかもしれなかった。

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