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遊山箱(ゆさんばこ)でしか体験できない文化について

遊山箱(ゆさんばこ)という文化が徳島にはあります。字のごとく、山で遊びます。

(遊山箱文化保存協会サイトより:https://yusan-bako.info/)

3月の節供前後に遊山の風習は全国的にあったとみられてますが、徳島でよく聞かれるのが、旧の3月3日だけでなく、3月4日を『シカノアクニチ』と呼んで仕事を休み、遊山をして過ごすというのは、徳島と岡山に伝わっていることが報告されており、全国的にみても特徴的な風習だそう。これは、旧の節句4月3日などの主要な節供の翌日は、仕事を休み、身体を慎む日とされていたことからだそうです。シカノアクニチという名前は、大滝山(現在の徳島市眉山町大滝山)に遊びに行き、どこも人であふれ、大滝山にいる鹿にとっての悪日、鹿の悪日であるとか、3月3日の遊びを徹底させるから、四日の飽日であるとか言われていますが、本当のことはよくわかっていないそうです。遊山箱の風習は、文化3年(1813)年頃から、幕府に命を受けて、国学者 屋代弘賢(やしろひろたか)が年中行事や、冠婚葬祭などについて諸国に送った質問状『諸国風俗問状(しょこくふうぞくといじょう)の答えである『阿波国風俗問状答 市中歳節記』(筆者不明・年代不明)の3日ひなまつりの事に、此の日、男女子供、べん当を持たせ、船にて、汐干に遊び、山にたわむれ申候との記録が残っており、この頃には、遊山の風習があったという事になる。遊山は、もともと、野遊び、磯遊びということだけではなく、自分たちの暮らしにとって、重要な田を神として敬い、大切にしていたまつりごとであったこと、江戸時代からその風習があったということを知ることができる。人々は季節の移り変わりを肌で感じ、季節ごとの行事をとても、大切にしていたことが伺えます。
(引用:遊山箱とは:徳島県立博物館:学芸員(庄武憲子氏)

遊山箱の話を聞くと、お年寄りの方々からは笑みがこぼれ、だんだんとピンっと背筋が伸びてきて、当時の少女の顔になるような、そんな錯覚にさえなります。思い出や味やその時の風景は人の脳裏の奥底に深く刻み込まれているのだなと思います。

私の祖父母は農家だったので、みかんの収穫時には近所や親類が総出で手伝いにくる繁忙期には広い山々を駆けずり回って収穫したものでした。山に行くのが日常の生活の中にあったのですが、年に1回だけ山に遊山箱を持って行っていい日、3月3日は特別な日でした。まだか、まだかと指折り数えるほど楽しみな日だったことを覚えています。

遊山箱でなければ体験できないコトがそこにあった

① 自分のために作ってくれる人がいる
② 地域コミュニティとの関わり
③ 一緒に食べる仲間がいる
④ 自然と触れ合いながら食べる

幸せな台所の思い出も遊山箱

遊山箱に詰める中身は決まっていて、煮しめに巻き寿司、ういろ寒天。朝早くからかんぴょうを茹でる甘い香りが家じゅうに広がります。妹たちより少しだけ早く起き、巻き寿司を作るための色とりどりの具材を揃える祖母と母の後ろから、小さな手で巻き簀(まきす:巻き寿司を巻く竹)を取り、上手には巻けないけれど、妹たちや近所の子たちに美味しいねって言われるようにと一生懸命に見よう見まねで、巻き寿司を作りました。

ハロウィンのような風習があること

遊山箱は子どもが持てるサイズの小さい三段重のようなもの。詰めれる量も限られているので、おかわりをするときには山から降りて、一度、家に帰ります。一緒にお弁当を食べている友だちの家にも行くので、自分の家の煮しめの味と、友だちの家の味、ご近所のお家にもお呼ばれしに行って、甘酒を飲み、巻き寿司をもらい、寒天をもらい。遊山箱におかわりを詰めてまた山に駆け上がります。特に家ごとの個性が出るのが、三段目の寒天。家によるとニッキ(シナモン)の味で大人になったような気持ちになります。料理が得意な友達のお母さんは牛乳寒天にイチゴをアレンジしてて、今でいう女子力!と心が躍るような瞬間でした。

家と家とのつながりが強かった時代

子どもの頃から親戚や近所の人が来るとき、とても嬉しかったし、帰って欲しくなくて、暗くなるまで、いっぱいおしゃべりをして帰る時間を忘れてもらおうと考えていたような子どもでしたね私。今でも孤独が怖いし、嫌い。

家と家との距離が近かったんだと思います。心理的な距離と言うか、絆。リアルには遠かったですよ。隣の家に何かを持って行くときに、1kmくらい離れていたし。直線距離では。そこから上に上がる(山←)遠い!

一つの家の単位じゃ、とてもじゃないけど、繁忙期に田植えが終わらない、収穫が終わらない。一つの家の単位じゃ、トラクターなんて買えない。役割やリソース(人的リソースと資源の共有化)の貸し借り。共に力を合わせて働くこと、お昼が来るとご飯を食べる、10時と15時にはおやつなど、生活に密に紐づいた日々の関係性があったことが、遊山箱の特別な日には、隣に行って巻き寿司をもらったり、お菓子やフルーツをもらったり。一人じゃないことを実感できた遊山箱の日は包まれるような幸福感が誇らしげでした。

遊山箱の文化がなくなりつつある

もともと遊山箱は船大工や婚礼家具の職人が腕試しに作っていたのが始まり。近所や親戚に女の子が生まれたら、プレゼントに雛人形と一緒に飾っていた記憶があります。三段のお重が、きちんと隙間なく端と端があって、上下にスライドする蓋が一分の狂いもなく、ストンと入る。子どもが山に持って行くときに、どんなに振り回しても、小さな工芸品のようなお弁当箱、遊山箱は蓋が飛んでいくこともなかったのは、当時の職人さんたちの技術力の高さがそうさせたのか、と30余年経った今、遊山箱に触れながら、時間を飛び越えてその技に再び感動しています。

私より年齢が下の30代、20代の人はすでに使ってなかったと聞きます。近所との付き合いが希薄になったこと、技術者が居なくなったこと、高価になったこと。諸説ありますが、私はやはり、遊山箱でしか体験できない文化、誰かと一緒にご飯を食べたり、自分のために用意をしてくれた甘い香りが漂うような台所の幸福感を子どもたちにも伝えておきたいと思います。

新町川沿いで展示していた遊山箱と和菓子(2018年春)

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