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蝶についての考察

ある日、こんな詩のツイートが巡り巡って私のタイムライン上に現れた。

蝶 西條八十
 やがて地獄へ下るとき、
そこに待つ父母や
友人に私は何を持つて行かう。

 たぶん私は懐から
蒼白め、破れた
蝶の死骸をとり出すだらう。
さうして渡しながら言ふだらう。
 一生を
子供のやうに、さみしく
これを追つてゐました、と。

胸がしめつけられる気がして、とりあえず「いいね」をつけて画面をそっと閉じた。

なぜそんな気持ちになったかというと、とっさに「無為な人生」という言葉が頭をよぎったからだ。

蝶=夢 と考えると

件のツイート(現在は削除済み)のリプ欄にたくさんぶら下がっているが、蝶とは夢の比喩だと考えると色々な見方ができる。

1、夢が叶った

執拗に追いかけられた蝶(夢)は、虫取り網から逃げようと必死で飛んだため、羽がボロボロである。

「蒼白め、破れた」というところから、奮闘しながら蝶をつかまえたことがうかがえ、主人公も必死の思いで蝶(夢)を捕まえたのだなと思う。

2、思い描いていた夢は叶えてみると期待していたものと違った

美しいと思って追いかけた蝶だったのに、ポケットから出した時には青ざめた死骸となっている。

手中に収めることができた蝶だが、よくよく見てみると全く美しいものではなかった。

蝶(叶った夢)自体が美しくなかったという見方もできるし、蝶を捕まえた(夢を叶えた)自分自身がその過程でボロボロになってしまい、その姿を蝶に投影させたのかも、とも思った。

3、夢は叶わなかった

美しく飛び回る生きた蝶が夢の比喩だとすると、ポケットから出てきた蝶は死んでいるので叶わなかった夢の比喩だとも思える。
詩を読んだ瞬間、私は3だと思ったが、「夢が叶わなかったなら、ポケットには何も入っていないのではないか?」とも思ったので1と2を再考した。

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西條八十はとりかえしのつかない喪失感や絶望感を与える詩がよく知られているが、この詩もご多分にもれない。

絶望感を与えるポイントはまず冒頭にあって、父母や友人が下ったのが「地獄」であったこと。
どうして八十は、死んだ知り合いが地獄へいくと思ったんだろう。

そして、蝶を追いかける様が「さみしく」と形容されていることが、喪失感を与えている。
蝶をつかまえても、つかまえられなくても、人生はひたすらさみしいのだ、と言われているような気がする。

ひたすらにさみしく、そしてポケットには蝶の死骸しか残らないような人生を送った人は、極楽には行けずに地獄に下るのかもしれない。

自分が死んで地獄に下った時、ポケットには何がどんなふうに入っているのだろう。
そして、そこで再会できる人たちはいるんだろうか。

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Photo by Annie Spratt on Unsplash
https://unsplash.com/@anniespratt




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