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フランス日記:11月30日「パリ・番地観光〜モディリアーニ編」

番地観光の愉しみ

小説や映画の舞台となった場所を聖地として、ファンが赴くことを「聖地巡礼」という。パリはたくさんの芸術家が過ごした街なので、たくさんの芸術の聖地がある。ルーブルやオルセーで作品を眺めるのも楽しいが、せっかくパリにいるので芸術家の「聖地」を巡ってみたいと思った。「聖地」の番地は調べることができるので、その番地を目指してパリを歩きたいと思う。
今日のテーマはモディリアーニ。

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▲「ジャンヌ・エビュテルヌの肖像」
ジャンヌ・エビュテルヌはモディリアーニの妻である

モディリアーニはイタリア生まれで第一次世界大戦中から第二次世界大戦前までモンパルナスで活動した画家である。画家というのは存命中に絵が売れないのが常だが、モディリアーニもご他聞に漏れない。2018年にはサザビーズの当時の最高額で作品が落札されたにも関わらず、生前は全くといっていいほど評価されず、貧困のうちに結核で没した画家である。

芸術家が集ったカフェ「ラ・ロトンド」(ラスパイユ通り)

クリスマス前ということで、道端でクリスマスツリー用のもみの木を売っていた。

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ラスパイユ通りとモンパルナス通りが突き当たったところに、カフェ「ラ・ロトンド」がある。

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ここはモディリアーニの他にもモンパルナス界隈に住む芸術家が集ったカフェだ。モディリアーニはここでお客の肖像画を描いて売っていたのだそう。

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▲モディリアーニの絵画がところどころに飾ってある。

「芸術家が集ったカフェ」というともっとリーズナブルなカフェを想像していたのだが、創業100年以上を誇るだけあって内装がしっかりした、ちょっと緊張するカフェ・レストランだった。コーヒーを一杯だけ頼むつもりが、まわりはちゃんと食事をしており、そんな雰囲気じゃない気がしたのでデザートを頼んでみた。

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▲ババなんとかというケーキ(名前失念)。ケーキにラム酒をかけて食べるのだが、ラム酒をかけすぎて水と一緒に必死で食べた。

モディリアーニのアトリエ

ラ・ロトンドのあるモンパルナス通りに面した小さな通りを入ると、モディリアーニのアトリエかつ妻のジャンヌと暮らしたアパルトマンがある。

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▲グラン・シュミエール通り8番。
アトリエがあったことが案内板で示されている

妻のジャンヌはモディリアーニの14歳年下で、二人の間には娘がいた。この住居に暮らしていた時は生活が困窮しており、長年の麻薬とアルコールの常習のせいでモディリアーニはかなり衰弱していた。ここはモディリアーニの最後の住居だ。彼は1920年1月24日に結核性脳髄炎で亡くなった。

妻ジャンヌの悲しい最期

夫の死にかなり憔悴していたジャンヌは、グラン・シュミエール通りから15分ほどのアミヨット通りにある実家のアパルトマンで兄に付き添われていた。目を離したら夫の後を追いかねないジャンヌを兄がつきっきりで見守っていたのだ。兄も疲れ切っていたのだろう。明け方の睡魔に襲われてうとうととしていたところ、ジャンヌはアパルトマンの5階から身を投げて死んでしまう。ジャンヌはモディリアーニの二人目の子どもを身篭っていた。この時代に父親のいない子どもを抱えて女性が生きていくことがいかに困難だったか。自らとお腹の子の身を案じての自殺だった。

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▲アミヨット通り5番。現在は住所は残っているが該当の建物はない模様。

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▲人通りの少ないひっそりとした通りである

パリの建物には、モディリアーニのアトリエがそうだったように、著名人が住んだり亡くなったりしたことが案内板で示されていることが多い。しかしジャンヌの亡くなった場所にはそのような案内はなく、わざわざ調べて足を運ばなければそのことを偲ぶ人もいないだろう。

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モディリアーニの作品が好きということもあるが、こちらの本でモディリアーニとジャンヌのエピソードを読んだときに、「天才画家とその家族」というより、一人の人間の不遇な人生として引き込まれるものがあった。

著者の西岡文彦さんは、画家の喜びや悲しみ、エゴを一人の人間のものとして捉え私たちに伝えてくれる。モディリアーニ散歩をするほどにモディリアーニのとジャンヌの人生に惹かれたのはこの本あってのことだ。絵画好きな人にはぜひ一読をすすめたい。


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