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越前リョーマ考(2)希望の王子は葛藤するか

越前リョーマが抱えるテーマについての、自分とのダイアログ。
「目に見える側に囚われるな 物事の本質を見抜け」という越前南次郎の教えを都合よく解釈し、越前リョーマの見えない側/物語の余白を妄想考察していきます。

※ 原作のキャラが至上であり最高という大前提の元で、原作設定を否定するつもりは全くありませんが、偏向解釈による仮想要素も含みます。原作至上主義の方、テニプリに女の子は不要という方、王子様は常にかっこよくて最強なはずとお考えの方には不向きな内容かもしれません。

越前リョーマは葛藤しない

アニメ等で越前リョーマの声優/CVを担当されている皆川純子さんへのインタビュー記事に

越前リョーマは葛藤することを見せない、迷いも見せない、ただ強い」

新テニスの王子様公式キャラガイドブック「ペアプリ」5巻

というコメントがあるのを拝読しました。

皆川さんが言われている通り、越前リョーマは原作中で自身の葛藤や迷いを言語化したり、表に見せたりすることはありません。

そもそもテニプリには、葛藤とか迷いとかいったマイナスな人間的感情の対極にある、圧倒的な自己肯定が根幹に置かれています。
その最たる存在が主人公・越前リョーマであって、その揺るぎない自尊心と自己肯定と弛まぬ向上心がファンを勇気づけ、魅了し、テニプリというハッピーな世界を牽引する主人公たりえている。
越前リョーマとは「テニスって楽しいじゃん」という作品のテーマを全肯定する存在であり、生まれた理由も生きる理由も、これから先を生きたいと願う理由も全てがテニスを肯定することで成り立っています。
群れない野生動物みたいに、生きるために生きる。テニスを楽しむためにテニスをする。より強くなるために生きる。より強くなるためにテニスをする。テーマとして完成されていて「自分はなぜ生きるのか(テニスをするのか)」みたいな人間的なことを考えたりはしない。

テニプリはヒューマンドラマではなくテニス(ファンタジー)漫画だから、越前リョーマはテニスの魂であって、作品の「光の部分」の象徴で、魂の表現に必要ない部分は詳細に描かれません。
もちろん、表情だけで「何か思うところがあるのだろう」と感じられる場面は要所要所に差し込まれ、思索に耽ったり神妙に沈黙したりしているときなど、彼の内面を窺い知れるようなシーンもたくさんあります。けれどそれらははっきりと言語化されたり説明されたりすることはなく、むしろクールで寡黙なキャラクターを際立たせる演出になり得ている。
言葉になって表出されるのは端的なメッセージだけ。しかし多くを語らないからこそ、その言葉はひときわ強く輝き、人を惹きつけて離しません。
そして試合になれば、どんなに追い詰められても決して絶望することはなく「テニスでは絶対に負けない」という勝利への執念、誰を相手にしても怯むことなどない精神力、爽快な強さで「勝利」を奪い取っていく。

主人公として、時にテニスアイドルとして、越前リョーマというキャラクターは普遍です。

越前リョーマは難しい

そんな光の象徴のようなリョーマ君ですが、許斐先生は連載当初、このように彼と作品のことを捉えていたようです。

「リョーマは主人公として難しいというか、主人公のサブにいて映えるキャラクターだと考えていましたから。彼を主人公に持っていくと、作品全体が暗くなるのでは、という不安がありました」
(その不安をどう打破したのですか?という質問に)
「他のキャラクターの設定を工夫したことですね。リョーマの周りにすごく強い青学レギュラーたちを持ってきて、その誰もがリョーマの個性に負けていないという。リョーマで行く、と決めたからには最高のものを描いているつもりです」

「テニスの王子様公式ファンブック」10.5巻掲載 許斐先生へのインタビュー

「越前リョーマを主人公に持っていくと、作品全体が暗くなる」
…このコメントに喜ぶ人がこの世にいたら、私は握手しに飛んで行きたい。

そもそもリョーマの設定は「ダークヒーロー」だったと言われるくらい、少年ジャンプの王道路線とは真反対。海賊王や鬼退治を目指すような「わかりやすく明るい正義」は持ち合わせておらず「心揺さぶる友情・涙ぐましい努力の姿」も描かれていません。
越前リョーマという、明るくも正しくもない生意気な王子様をひとりの主人公として確立させていくためには「ただ強い」という設定だけだと不十分で、彼がどうしてそのような性格であるのかなどの背景を、作中でも深く掘り下げる必要があったはず。
そして「作品全体が暗くなる」というコメントからの推測するに、当初ダークヒーローだった彼を正当な主人公として成長させていくためには、壁に当たる様子(挫折や葛藤など)やそこからの復活劇についても、詳細に描かざるを得ないという意味もあるのかもと推測しています。

そのため、越前リョーマに負けない個性を備えた青学レギュラー全員がひとつの主人公(校)として纏めることで、それまで個人としての主人公に「明るい正義」据えることを定石としてきたジャンプの王道路線を、学校単位で成り立たせたのかもしれません。
リョーマだけに明確な主人公性がなくとも、個性の強い青学メンバーが「友情・努力」という部分を担ってそれをカバーしてくれましたし、周囲が彼を「青学の絶対正義」「青学の柱」として中心に据えてくれました。
青学は「主人公(校)」としてレギュラー7人が切磋琢磨しながらも団体戦を通してひとつのキャラクターにまとまることで、「王道の主人公」らしさを学校単位で表現することができたともいえます。

こうして「テニスの王子様」という作品を明るい光と希望あふれるものにするために、(越前リョーマだけにスポットライトがあたらないように)たくさんの魅力的なキャラクターを配置したのだとすれば、もしかすると原作者の中では大切に守られている彼がいて、その内側は意図的に隠されているだけなのかもしれません。
そして彼の、生意気でクールな性格や「テニスのために生まれテニスのために生きる」「テニスでは絶対に負けない」という設定は、そういう内側の柔らかい部分を自然にカバーし、なおかつ「越前リョーマがテニスで葛藤したり迷ったりすることなどそもそもあり得ない」という、余計な推測を挟ませないほどの強い説得力を生み出しています

越前リョーマは描かれない


友情・努力といったパートを青学の先輩方に協力してもらうとしても、彼は「テニスの王子様」のテーマを体現する存在として、主人公として、常に強くあり続けなければなりません。

新旧シリーズを通して公式戦は無敗。リョーマが負けたとされているのは非公式の試合のみで、旧シリーズ中では父・越前南次郎と手塚部長、新テニでは徳川先輩だけだったと思います(もし間違ってたら教えてください)。
ただその敗戦については詳細な試合経過が描写されていないので、負けたことに具体的に何をどう感じていたのかは想像するしかありません。手塚部長との野試合については前回の記事でも触れましたが、読者の「知りたい」という期待を意図的にシャットアウトするかのようにおかれた『描写の欠落(余白)』は、彼の心の中を『見せない』のと同じこと。

また旧シリーズ終盤には、通常の少年マンガであれば主人公としての最後の成長の契機になっていいはずの「南次郎との山籠り」「記憶喪失(テニスの喪失)」といったかなり重大なエピソードがありました。けれどそのエピソードが物語の展開上必然となった理由、エピソードが内包する意味ははっきりと描かれていません。
記憶喪失からの回復はライバルや仲間からの友情応援という形で表面上はキレイに収束していきますが、ジャンプの王道ルート(友情・努力)に最後に無理やり乗せてみた感じも否めない。そしてここでもまた、読者の「喪失から再生に向かう過程をもっと知りたい」という欲求は強制的に遮断されて結果のみが提示されます。

リョーマにはこの直後の決勝戦でもまた「五感喪失」という絶体絶命の危機が訪れるのですが、このシーンでも驚くほどのV字回復を遂げることになります。「テニスを忘れる」「テニスを嫌いになりかける」という、作品とか主人公の存在意義が問われるほどの深い喪失にも関わらず、真っ暗な谷底に落ちたかのように見えたのは一瞬だけ。そこから何話もひきずったりすることはなく、数ページの間に「テニスを嫌いになるなんてできない…!」からの「テニスって楽しいじゃん(天衣無縫)」へと、覚醒を遂げる。

この有無をいわせないストーリーの推進力、絶体絶命からの回復劇こそが越前リョーマの、そしてテニプリの醍醐味であり、彼の劇的な勝利は気持ちがいいほどのカタルシスをもたらしてくれる。

「王道の主人公」という既成の枠に閉じ込めないために、リョーマのキャラクターの人間的な部分(=心の中や、深い思考)の描写についてはかなり慎重に配慮されながら、最低限のことだけをセリフにされ、必要な心の動きは絵の説得力で見せられます。
それを「描かれなかった」というのが語弊があるなら、南次郎のいう「見えない側」として、画面で見せているストーリーの外に置かれている。私たちは作品の展開上必要な、見せるべき一面だけを見せられている。


こういった「見せられ方」によって、越前リョーマは作品のテーマを体現する主人公として完璧にその役目を全うしていきます。

越前リョーマは強くなりたい


こうしてこれまで、リョーマ個人の心情や内面については物語の余白に置かれたまま深く描写されることはありませんでした。けれどそれと相反して、無印から一貫して越前リョーマの主軸となっているのは「もっと強くなりたい」という、現在の自分に満足しない姿勢、上へと向かう言葉です。

葛藤しない、迷わない。ひたすら負けない。

越前リョーマはそういう人であると見せられている関わらず、原作中で繰り返し繰り返し書かれるのは、渇望すら感じられるほどの「強くなりたい」という言葉の重み



では、「強くなりたい」とは、どのような内発的動機を伴った言葉なのでしょうか。


一般的な漫画の主人公というものは、他のどのサブキャラよりも思い悩んだり壁に当たったりして、その経過を描かれながら成長し、魅力ある人物になっていくことが多いように思います。
たとえば最終決戦に向かう場面では、リョーマの記憶喪失よりもライバルの立海大付属・幸村さんの病気克服のエピソードの方がよほどドラマチックで、人間らしい苦悩とそこからの脱却という成長過程が描かれています。この時の幸村さんは主人公の敵役ですが、その生きざまやテニスにかける思いなどに共感したり応援したくなってしまうファンが多いのも当然かもしれません。

幸村さんをはじめ、跡部様などリョーマがこれまで戦ってきた他校のメンバー、そして不二先輩など青学の先輩方(新テニでは、海外勢も含めて)、他のたくさんのキャラも然りなのですが、主人公の宿敵として登場する彼らはわかりやすい「敗戦や屈辱」を経験していて、そしてそこから上へ這い上がろうとする姿勢、「強さ」を目指すその理由と精神、努力の姿を、物語の中で丁寧に描かれています。弱いものが強くありたいと願い努力する姿勢は、読者からの共感を得られやすい。

主人公のライバルたちが己の過去や弱さと向き合い、作中で成長していくエピソードが具体的に描かれていくのに対し、リョーマのそういったシーンはあまり深く描かれてきませんでした。今までの彼の「強くなりたい」は「ネットの向こうにいるヤツ全員倒したい」「卑怯なテニスをぶっ倒したい」「誰にも負けない」という曖昧な強さを求める言動にとどまっている。南次郎はそれを「まだまだ」「100年早い」と曰います。

さらにこのnoteを書いている時点では、彼の過去については「越前家の中で何か一波乱ありそう」な布石が置かれているだけです。それもどちらかというと、父・南次郎の思惑や兄(?)リョーガの出自・能力の方にドラマの焦点が当てられがちで、リョーマ本人のことについてはまだヴェールに包まれている状態。他のキャラクターほどに心の深い部分を描かれたシーンがありません。
もちろんこれからのスペイン戦、作品のクライマックスに向かう過程の中でその伏線が回収されていき、そこに絡む形でリョーマの深部が明らかになる日が近々来るのかもしれませんが、それはまだ想像の域。

けれど先生が「リョーマで行く、と決めたからには最高のものを描いている」とおっしゃるように、「卑怯なテニスをぶっ倒す、日本代表の希望の光」として本当の意味での主人公になる日がやってくる。
来たるべき日のために温存されている物語の核心に「強くなりたい」越前リョーマが主人公として関わっていくからこそ、これまで語られなかった部分(作中に描かれていないストーリー)があるだけで、彼の内面は物語の深い場所に存在しているのではないでしょうか。


だから越前リョーマが「葛藤や迷いを『見せない』」と言われていたということはつまり、彼は実は葛藤し、迷いもするということと同義だとも思うのです。

「強くなりたい」とは、自分の未熟さを認め、葛藤し、乗り越えていこうとする決意の言葉です。手塚部長との野試合に負けた後、南次郎に向けて伝えたその言葉で初めて、越前リョーマは正統な主人公として光を放ち始めたようにさえ感じました。


「強さ」という曖昧なものの輪郭をどう削り出していくか。
ここからはじまったリョーマの挑戦ですが、まだ着地点は見えていません。

天衣無縫に至るほどにテニスを楽しめるリョーマであっても、そこにはまだまだ到達できていない。「義では世界は獲れんのだ」と平等院が言うように「卑怯なテニスをぶっ倒す」という正義感だけでもきっとダメなのでしょう。
メルボルンに向かう飛行機の中で南次郎は焦る様子を見せますが「なぜ今のリョーマでは、まだリョーガに勝てないのか」ここでもまた回答のない「強制的な思考の遮断」(余白の挿入)を行います。

リョーマも、私たちも、南次郎だけが知っている「強さの意味」を教えてもらえていません。

越前リョーマは大人になりたい?


しかし映画「リョーマ!」のエンディングテーマ、『世界を敵に回しても』の歌詞の中で、割とあっさりその回答が示されました。
あっさり過ぎて、えっ、こんな簡単にリョーマは強さの秘密に到達していいものなの?!と疑問符だらけになってしまったくらい。

「世界を敵に回しても守るべきもの全て」

がリョーマを強くさせてくれる、というもの。

ここまで映画を見てきたリョ桜民にとっては「これって桜乃ちゃんのことだよね!」と脳内変換されて狂喜乱舞です。
ただおそらく公式には、映画の中で実際に守った『南次郎の真剣勝負』であり『倫子、チビの自分とリョーガ』という大切な家族の命でもあるし、映画内で現代の日本から召喚された「これまで敵味方として成長を支えてくれたすべてのプレイヤーたち」でもあるし、もちろん桜乃ちゃんのことも含め、どの答えも正解なのだと思います。とても明快でわかりやすいし、私のような新規ファンを含めた全年齢に納得してもらえるような、ジャンプ漫画らしい王道の回答。
(逆に、そんな軟弱な理由で越前が強くなってたまるか、というご意見も拝読しました。それももっともな見解だと思います。)

しかしそれは、今回の映画の中での模範回答というか、テニプリという壮大な作品世界に対する回答の提示であって、作中現実の(中一秋冬時点の)リョーマがその答えをはっきりと掴んでいるわけではないはずです。

現に、時間軸では映画「リョーマ!」の後にある「新テニスの王子様」においても、リョーマはまだ「強さ」を追い求める途上にいます。アメリカ代表から日本代表に転籍するときに珍しく思想にふけり、迷いを感じさせるシーンはありますが、「自分を強くさせてくれた」仲間のもとへ戻ったからといってリョーマが実際強さの意味を獲得したわけではなく、彼が足元にも及ばないのではないかと思われる宿敵や強敵も次から次へと登場します。

ライバルたちが進化を遂げる激アツ展開のドイツ戦でもオーダーにすら入っていません。手塚部長やボルク、平等院らが繰り広げる異次元のテニスが目の前で展開されている間、リョーマはなにを思っていたのでしょうか。ただ客席から観戦するうちの一人として登場することも多いリョーマは常に焦燥に駆られているような複雑な表情をしていますが、そこから彼の気持ちを読み取ることは非常に困難でした。

では実戦ではどうかというと、全国決勝以来の公式戦、対フランスのS2になっても、それまで獲得した派手な技は全て破られた末「気合い」で奪い取った感のあるギリギリの勝利。王子的な見方をすれば桜乃ちゃんへの愛がリョーマを強くさせたということなのですが、この時点のリョーマ本人には多分そんな自覚はありません(無意識にはそういう意味でも負けられないという思いもあったかもだけど、きっと試合中は「単純にテニスでは誰にも負けたくない」ということしか考えていなかったように思います)。
また一歩間違えたら人生終わっててもおかしくないくらいの窮地(命の危険)に追い込まれていましたし、彼にとってプランス君との試合は未知の「強さ」との遭遇だったはず。
さらに新テニ38巻で繰り広げられた不二先輩とのS2争奪戦についても、実力で決着がついたようには到底思えません。一体どこでリョーマが盛り返していたのか何度読んでも理解できない(すみません)。
吹っ切れて覚醒した天才・不二先輩の怒涛の攻撃を前に、リョーマには「負けたくない」という気持ち以外に新しく打つ手があったのかどうか。最後にもうダメだ、というときに一瞬よぎった「彼」の姿が後押しをした、その片鱗が提示され始めたことにリョーマ自身が驚いている。

こうした実践における勝利によってもたらされる「強さ」の実感は、絶対絶命の窮地や、不可能の壁を乗り越えることによって上書きされていくものです。けれどきっと彼自身、新テニでまともに描かれたこの2つの試合だけではまだ納得、満足できていないはずですし、今のままではリョーガに勝てそうにありません。
12歳の彼にとって、「誰よりも強くなりたい、誰にも負けたくない」という願いは、自分よりも格上の人を倒すという戦績「だけ」によって実現されていくものではないようです。


そしてこれからのスペイン戦で、リョーマは多分これまでで最大の壁に挑戦することになります。目前に立ちはだかる「家族」という敵を前にして、リョーマは自身の目指す「強さ」について、どう対峙していくのか。

彼が目指している強さとは、
そして、憧れた「越えたい壁」である南次郎が、リョーマに突きつける「まだまだ」な「強さの本質」とは、なにか。


現時点の彼にはまだ南次郎のいう「守るべきもの」の姿が明確には見えていないのかもしれませんが、今後の連載でその回答が提示されていくはずだと期待しています。




「リョーマ!」の劇中で「(強さの秘密は)オマエさんがもう少し、大人になったらわかる」と南次郎は言いました。
ならばリョーマがたくさんの経験をして成長し、もう少し大人になったとき、守るべきもののことを知る日がやってくる。いつか、近い将来に彼が「本当の強さの意味」と出会える物語はきっとある。


ただ、この原作の余白をあえて言語化する(原作に描かれていないリョーマの側面を肯定する)ことはとても大それたことだとも思っていて、原作イメージに喧嘩を売ってんのか、とお叱りを受けても仕方のない考察をしてきたようにも思います。
考察も創作も、どんなに原作に迫ろうとしても偽物にしかなりえません。前回書いたように「テニプリは理屈じゃない」。物語を感覚で受け取る以上の言語化は必要ない気がしています。

そこまで思いながら、けれどそこを明らかにしていきたいと思ったのは、ヒロインの存在意義を問うためでもありました。テニスの王子様という大きなストーリー、そして主人公・越前リョーマの成長に竜崎桜乃が絡んでいく理由。


これは、自分のためのダイアログです。
ここから先に進むために、

リョーマが「強さの本質」に向かうために、竜崎桜乃が必然である理由とは。

(許されるなら続行予定)