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「ねき」と「そね」

バスの中で、お母さんが子どもに「もっとこっちに来ておきなさい」というのを見て、この言葉を思い出した。その年頃だった私に、「ねきに来とき」という大阪のおばあちゃんのことを。

私は、京都の病院で生まれて東京で育ったが、言葉を覚えて自分の周りの小さい社会を広げていく時期に、多くの時間を大阪で過ごした。大阪生まれの大阪育ちの人からすれば「えせ」かもしれないが、頭でものを考える時、人と敬語で話そうとするとき、家族でリラックスして話す時は、大阪ことばが頭の中でまわっている。かと言って、学校や会社などの社会生活は東京ことばで暮らしてきたので、口から発する言葉をどちらか片方100%にするのがちょっとだけ難しい。

一番面白かったのは、わが子が生まれた頃、話しかけようとすると、すべて大阪ことばなってしまうことに気づいた時だ。自分の子ども時代、周りの大人がかけてくれた言葉のほとんどが大阪ことばだったからに違いない。東京ことばで子どもに話そうとすると、どこかよそよそしくてしっくりこなかった。

おばあちゃんの「ねきに来とき」は、おばあちゃんの足元に身体をぐっと寄せてもたれるようにした安心感とともに思い出される。それを、「そばに寄っていなさい」や、「こっちに近づいて」に置き換えると、私の中では、そのことばから温かみや安心感が抜けるように感じる。因みに、調べてみたところ、ねきにはちゃんと漢字があり、「根際」と書くそうだ。

最近、人生後半戦で初めて聞いて覚えた言葉がある。「そね」だ。山菜取りをきっかけにお付き合いさせていただくことになった山歩きの師匠とお話していた時だった。もともと素潜りで魚を突いたり、貝を捕ったりされていた師匠は、よく潜る人はカサゴなどの根魚がいつもいるところや、鮑やサザエがよく捕れるところを覚えていて、そのような場所のことを、その人の「そね」と言っている、と教えて下さった。要は、その人の秘密の場所、とっておきの場所のようなニュアンスだ。

そこで、私は山菜にも応用して、「師匠の山椒のそねの近くで」とか、「あのタラの木のそね、そろそろ言ってみた方がいいんじゃないかな?」と使うようになり、それを他の言葉で置き換えようと思ってもしっくりくるものが今のところ見つかっていない。

言葉には、その意味以上にそのことばが運ぶ感情や温度のようなものが備わっているように思えてならない。

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