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私の背骨のはなし その5

マレーシアのジョホールバルで暮らして3年半。中学校は日本で通う、と自ら決めた子ども。さてと、これは帰国子女受験というヤツだな、と気づいたその時、橋を渡ってシンガポールにある日本の塾に行ってみると、今からですか?と驚かれながらも、親子して、どこか入れるでしょう、何とかなる、と。付け焼刃なりに子どもは頑張りを見せ、一人帰国、晴れて日本の女子中学生になった。

母は、ジョホールバルにあったインターナショナルスクールに通わせる必要も無くなったので、それまで何度か足を運び、すっかりその魅力に魅せられてしまったキャメロンハイランドという高地に引っ越すことを決めた。日本の有機農法を取り入れた地元農家グループの皆さんに良くしていただき、家探しから街の人たちへの紹介など、何から何まで。

その代わり?朝ごはん、昼ご飯、夕ご飯、ちょっとした遠出の野菜の配送、車の修理など、同行当たり前。一人暮らしになって、うかうかと寝坊していると、窓の外から、おはよう!ゴハン行くよー!の声。はーい、と飛び起きて、顔を濡らす程度に洗って、歯磨きして飛び出し、そのまま、ほぼ寝ていた姿のまま夜までなんていうこともしばしばの日々。

標高1600mの山の上の冷涼な気候で作る有機野菜の畑を見学に来る、シンガポールやペナンなど街の人たちのご案内に付いて周り、説明をしたり、農作業体験のお手伝いをしたり。とにかく、そこの人たちと一緒に暮らしながら、日本人である私が出来ること、ここでやるべきことを、ああでもないこうでもないと考えたり、話し合ったりしながら過ごす日々は、この上ない幸せ。頼らせてもらっている分には見合わないが、時々頼ってくれることも嬉しい。

しかし、山の上は、やはり不便もある。同じマレーシアとは言っても、クアラルンプールやジョホールバルのスーパーマーケットで売っているような、輸入食材などが売られている店は無い。つい昨年までは、便利グッズの店なども無かった。必要に応じて、時々、車や定期バスで2時間のイポーか、3時間半のクアラルンプールまで山を下りる必要がある。それでも、とれたての野菜はいつでもたっぷりあるし、新鮮な魚介も毎週末トラックで運ばれてくるので構わない。イスラム国家故に、市場の端っこに追いやられてはいるものの、売られている豚肉は新鮮。そして鶏は生きている!

というわけで、私の不便は、この1点。マッサージ屋さんが、下手。これだけのために山を下りても、またバスや車で上がってくると疲れてしまうので、意味が無い。嗚呼、おじいさん先生に会いたいな、と思っては、代わりに、街に下りたときに、あのおばちゃんは上手、あの店はなかなかいい、と言いながらお茶を濁して過ごしていた。

JCになった子どもの夏休みに合わせて帰国すると、腰が痛いと言い出した。とても痛いと。マッサージして欲しいというので、毎晩オイルマッサージなど、昔取った杵柄(自分はしてもらっていただけだが)でがんばってみても、一向に良くならない。おじいさん先生にお願いするしかない!赤ちゃんだった彼女が最初で最後に診ていただいたあの時から、すでに10年が経っていた。

マレーシアに行ってから年賀状を出しそびれる年が続き、おじいさん先生とも音信不通になっていた。電話がつながらないので、Googleでその診療所と先生のお名前で検索してみると、〇〇先生急逝を悼む、の文字。初めてお会いした日から、ずっとずっと元気で歳を取らないはずの先生だったが、なんとなく胸騒ぎのような予感が的中してしまった。息子さんがご自宅で分院をされていたことを思い出し、そちらに娘を連れて行き、お参りさせていただいた。

その後、整形外科でCTを撮り、腰椎分離症と診断され、半年のコルセット生活とバスケットボール部の休部、そしてリハビリなどを経て全快したが、腰が弱く姿勢もあまりシャキッとしない娘の後ろ姿を見ると、おじいさん先生がいらっしゃれば、と今も思う。単に治療していただきたいということではなく、あなたはその身体と一緒に暮らしていくんだよ、うまくやっていかないとね、痛くならないようにしようね、と心を柔らかくして、自分の身体や姿を受け入れられるようにしてくださる、あの言葉をかけてやっていただけたらな、と思うのだ。

つづく。


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