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分類とカオス

昨晩のこと、高校時代からの友だちとLINEでおしゃべりしながら、昔こうだったよね、ああだったよね、と受話器から声が聴こえてくるわけでもないのに、声を出して笑っていた。ロンドンの寮に泊まりに来てくれたときに、「ゆかって、同じものをまとめて飾るのうまいよね」って言ってくれたでしょう。あの瞬間、ハッ、私、すごいスピードで自分の中で分類をしている、モノでもコトでもヒトでもということに気づいたんだ、と思い出して、話した。そんなこと言ったっけ?と返され、拍子抜け。

すでにベッドに入っていたにも関わらず、おもむろに抜け出し、バスルームへ。鏡の周りに飾った、どこかで拾ってきた小石やサンゴの欠片。アロマオイルの小瓶など、どんなふうに飾られているかを3枚ほどの写真に収めて、送る。ほら、ね。そうしながら、分類癖がありながら、私の中のほとんど部分が、カオスであることも思い出す。その辺に放置された小物やなにやらが目に飛び込んで来たからか?

大事な物の整理整頓、デスクの上の片づけ。カバンの中。書類のファイリング。スケジュール管理。どれもこれも、一言で言うならば、ぐちゃぐちゃだ。ノートテイキングに至っては、これが私の脳みその中なのですー、と恥ずかしながら描いてしまいました状態。自分だけは、一目瞭然、よくわかるつもりが、人が見たら、きっと、なんじゃこりゃ?ちょっとやそっとの、片付け下手というレベルではない。

そこで、分類とカオスという言葉が降りてきた。というほど、大袈裟な話でもないが、ぐちゃーっと蜷局を巻いているようなカオスの中で、ちびちびとした分子みたいなものが、実は、分類されて小グループになっていたり、一列にピッチリと整列していたり、山頂の小石のように積み上げられていたりしながら共存している。これだ。

旅支度をすることが多い。ぎりぎりまで、日常通りの時間の過ごし方をしていたいので、準備のことは考えない。そして、最後もう今やらないとダメ、という瞬間にスーツケースを広げ、ざーっと一気に必要なものを出して、放り込む。毎回同じというわけでもなく、そのときに、コレだ!と思うものをポンポンと。そもそも入れるものが決まっていないから、忘れ物、という概念も、ほぼ無い。あるモノで過ごす、または、不足分は現地調達する。

試験勉強の仕方もそうだった。授業は聴いている。(好きな科目、捨てる科目、という分類がすでにされているので、好きな科目だけ。)しかし、試験勉強ということを習慣づけられていなかった、エスカレーター校生の私は、当然一夜漬け。深夜まで、友だちと電話でだらだら話しながら、分からないところなど教えてもらい、なるほど、わかった、ありがとう、じゃあね、と切ってからやっと、覚えないといけないんだった、と思い出す。

裏紙に、今聴いた話と授業中の先生の話を思い出しながら、ぐちゃぐちゃと書き出す。通しで書いてみて、思い出せなかったところを、後から埋めて、おしまい。寝る。学校に着いてから、試験が始まる寸前に、後から埋めたところだけを見る。ざっくり、そんな感じで試験に挑んでいた。

見える部分、ほぼすべてぐちゃぐちゃ、しかし、下地に「ココ大事」と分類されている部分だけに、さらなる分類がすでにあるので、当てはまるものを取ってはめて行くだけで、非常にシステマチックな作業。☜自分にとって。分類とカオスの気持ちの良い共存。

まあ、これを、クローゼットやテーブルの上を片づけない言い訳、と見るか、なるほど、そういうことだったんだね、実は、分類が得意だったからこそ、ぐちゃぐちゃになっていたのか!と(好意的に)見るか。普通は、前者だな。。。

もともと、「カオス(無)」はギリシャ神話に出てくる原初の神。対義語は、「コスモス(有)」。ギリシャ語で秩序や整理を意味する言葉から発しているとのこと。現代使われている「カオス(混沌)」と「コスモス(宇宙)」の意味は、そこから変化してきたものとのことだが、無と有、という方が、腹落ちする。

「有」だからこそ、それを分類する。カオスは、まだ「有」になっていない状態なのだ。形を形成しておらず分類するに値しない、または、もっと熟成し膨張して「有」になってくるまでは、何にも分類せずにおいてこそ価値が生まれてくるように感じていること、というのが近いか。その「無」と「有」を、自分の中で分類することから始まる。

全然すっきりしないようで、非常にすっきりした。

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