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アフリカの錆びれたトタン屋根の長屋から始まった12年

 先週、ひょんなことから私の原点でもある場所に戻ってきた。

 12年前、片道チケットでタンザニアに意味不明な自信とともに1人やって来た私。ビジネスを成功させて、そのお金で孤児や貧困層の人たちを救う仕組みを作るのだ!と息巻いていた私は、着いて早々出張で訪れた隣国のウガンダで、ビジネスのアイディアや連絡先が入ったパソコンや携帯、ビジネスにつぎ込もうと持ってきた全財産を盗まれた。
 大泣きしている私を嘲笑うかのように、容疑者達を捕まえた警察は一文無しになった私に賄賂を要求し、裁判には容疑者達の親族一同が終結し、全員に睨みつけられた。
 何度開かれても一向に進まない裁判への苛立ちが募っていく中、裁判前に賄賂を渡すために裁判長の部屋に入っていく容疑者達の両親を見て、大人になって初めて大勢が集まる裁判所の廊下で皆が振り向くのも気にせず声をあげて泣いた。

 日本にいる両親に助けを乞えば良かったのかもしれない。
しかし、親の大反対を押し切り、婚約破棄をしてまでやって来て、まだ何も成果を生み出せていない現状を受け入れることができず、親に日本に帰るチケット代を素直に頼むことが当時の私には出来なかった。
 唯一手元に残っていたカメラ機能すらない携帯の電話帳に登録されていた元彼に連絡をして、数万円をウエスタンユニオンで送金してもらった。もう恋愛感情もない元彼だからこそ、深く考えずに頼めたのかもしれない。

 その貴重なお金でウガンダからタンザニアへ戻り、やっとの想いで借りて住みだしたのが家賃月二千円の長屋の一部屋だった。窓ガラスはなく網戸のみ、隣の長屋との距離が1メートルもなく、お昼は近くのおばちゃんたちの井戸端会議、夜はご近所の夫婦喧嘩が定番BGMのこの場所が私のタンザニアでの原点となった。
 

この右奥のほうの長屋に住んでいた

 日本に居た頃はあまり気にしたこともなかったが、生きるということは何かとお金がかかった。長屋の部屋は薄いトタン屋根で、日中になると熱気が上から降りてきて部屋の中は蒸し風呂状態。水浴びして涼もうにも、日中水道から出てくる水は、地表の温度で温められて熱くて浴びられる状態ではなかった。汗だくだくで喉は乾くし、お腹もすいた。
 水代をケチって水道水を飲んだら腸チフスにかかり、ちゃんとしたご飯が食べられず1個6円程度で売っているサモサ(ジャガイモを小麦粉で作った皮で包み、揚げたもの)だけを毎日ちびちびと食べていたら、マラリアが悪化して立ち上がれなくなった。自分の生きる力のなさに情けなさと苛立ちを感じ、日本に帰れないままここで飢え死にするのではと恐怖すら覚えた。

 タンザニアでは私は外国人、ここに存在しているだけでもお金が発生した。最後にタンザニアに入国してから3か月が経とうとしており、ビザ(査証)を更新する必要があった。1日100円以下で生活をしている自分にとって、50ドルもするビザは高級品でしかなかった。

 飢えと病気に加え、乗り合いバスの約20円も支払えず6キロ位の距離を炎天下の中ひたすら歩いていたため、日に焼けどんどん痩せていった。これからどうなるか分からない中、こちらに来てから知り合った人がいい考えがあるから、ビザのことを助けてくれるという。それは是非助けて欲しいと話を聞きにいくと、俺と結婚したら配偶者ビザでこの国で暮らしていけるぞ!と大真面目な顔で言ってきた。
 最初に言われた時は鼻で笑って断ったものの、私の置かれた状況は全く変わらず、元彼から送ってもらったお金も減っていくばかり。よく考えたら別に今彼氏もいないし、形だけの結婚だと再度言われ、市役所で名前くらいしか知らないその人と結婚したのだった。

 私は、確か結婚から始まる恋が描かれた映画があったよな~等と呑気なことを考えていた。ひとまず結婚したことにより配偶者ビザを貰え、更にその人のお兄さんがカジノのオーナーの運転手をやっていた関係で、お兄さんがカジノの仕事を紹介してくれたのだった。
 夜勤だしギャンブルも嫌いだしという気持ちもあったが、もはや仕事を選んでいる立場ではないのは自分が一番分かっていた。前日に買ったばかりの綺麗なワンピースを買って面接に行くと、日本贔屓のギリシャ人オーナーがじゃあ明日から来てねと即採用してくれたのだった。

 今までスラム街のような長屋が密集し、昼間でも酔っぱらっている人が沢山いて、洗濯物を干していたら捕られる場所に暮らしてきた自分。カジノの中や周辺は、ここは本当に同じ国なのかと思うくらい別世界だった。
 最低バイインが10万円からのポーカー、一回のルーレットに50万円を賭ける人。毎日20円を払えないためにバスに乗れず歩いていた私は、毎日頭がくらくらしていた。
 今までタンザニア人しかいない環境で暮らしていた私にとって、カジノのお客さんも新鮮な存在だった。日本通の欧米人も結構いて、出稼ぎの東南アジア人に混ざって働いている日本人の私は、お前は日本で悪いことをして逃げてきたんだろう!等とよく揶揄われていた。

 お客さんは自分で会社等を経営している人たちが多く、来てすぐに全財産を盗られ何もできないでいる自分からすると、本当にキラキラして見えた。その中の1人に、日本に住んだことがあるアメリカ人がいて、急速に仲が深まっていき、自分が偽装結婚していたのも忘れその人との関係に夢中になっていった。
 私の頭の中はお花畑でも、それに納得しない人間がいた。それは、私を助けるために結婚してくれた書類上の夫だった。まったくの善意で助けたというよりは、元々好意を抱いてくれていたから結婚という提案をしてきた彼。お金がない私をときに金銭面で助けてくれたり、炎天下を一緒に歩いてくれたり、マラリアで立てなくなった私を夜中おんぶで病院に連れて行ってくれたり、病院代や薬代を払えないと自分の携帯を担保に治療を受けることができるようにしてくれたこともあった。
 よく考えれば彼の怒りは至極当然なのだが、恋愛をエンジョイ中の私は、だって書類上の結婚だったじゃん!と啖呵を切って、彼を余計に怒らせたのだった。誰かに家を見張らせているのか、外出するとすぐに「どこに行くんだ?困っているときは人を頼ってきたくせに、何様だ!」と非難のメッセージが絶え間なく届くようになり、どんどん追い詰められていった。

 カジノの仕事も夜10時から朝8時勤務で、朝帰ってきてからは暑くて寝れずに苦労していたある日、日本人男性がカジノにお客さんとしてやってきた。他の日本人から、カジノで日本人が働いているという噂を聞いて会いにやって来てくれたらしかった。話を聞くと、自分が任期を終えて日本に帰国するので後任を探すと思うが興味があるかということだった。
 当時の自分にとって願ってもない話だった。すぐに面接の日程を取り付けてもらい、翌月から働けるようになった。働くことになったのは、日本の大手の会社。現地採用の日本人とはいえ、そんな危ないところに住むことは許可できないと言われ、早々にちゃんとしたアパートに引っ越すことになったのだった。

 その後も、直属の上司であるタンザニア人に自分の仕事を奪うのではと嫉妬され、移民局の職員を呼ばれて強制送還になりかけたり、当時20代であった私が自分の倍以上も年の部下を何人も持つことになり、嫌がらせをされたりと大変なことは多かった。

 書類上結婚した彼ともアメリカ人の彼とも別れることになり、その数年後に職場で出会った人と恋愛結婚をした。しかし、その彼が転職に失敗し、結果的に寿退社したような形になってしまい、養う生活が始まった。次の仕事を探す訳でもなく、Youtube三昧の彼の御飯を作ってから出勤し、休日に家事をこなす毎日だった。

 そして妊娠が発覚したタイミングで、働いていた会社が閉鎖されるということになり、妊娠4か月で転職した申し訳なさから出産2日前まで働き、出産後2か月半で職場復帰した。夫はというと子供の息子のオムツ代を使い込み、それを問い詰めたことにより逆切れして別居することになってしまった。一度戻ってきて関係を修復しようと試みたものの結局上手くいかず、再度別居の話が出た際に逆恨みされ、嫌がらせで会社に労働局と警察を呼ばれ無実の私が逮捕されるという事件も起こった。

 タンザニアに来て本当に沢山のことが起こった訳だが、辛いときに思い出すのが、あの長屋でひもじい思いをしながらも踏ん張っていたあの日々。お腹と背中がくっつくってこういうことを言うのだなと身をもって知ったあの日々なのだ。
 現在、息子は6歳になり、私は働きながらシングルマザーをしている。生活が落ち着いた今、色々な経験を通して学んだことを活かして、悩みをかかえている人たちの相談にのったり、関わっている孤児院支援に更に深く取り組んでいきたいと思っている。長屋に住んでいたころとは考えられないくらい精神的にも成長し、ちょっとのことでは動じることもなくなった。

 それでもあの錆びれたトタン屋根の長屋が密集しているのを見ると、なんとも言えない気持ちになる。誰にも理解されることがないあの辛かった日々、そしてそれを乗り越えてきた自分、それを陰で支えてくれた沢山の人たち。

 久しぶりに通りかかったその場所は、周りは高いビルが建ち変わったものの、錆びれて穴だらけのトタン屋根が連なり、車が通ると土埃が舞う未舗装の道路のままで、タイムスリップしたかのような気分になった。夕日に照らされたその景色を見ながら、自分が通ってきたこの12年が走馬灯のように駆け巡った。と同時に、随分遠くまで歩いてきたなあと自分を誇らしく思ったのだった。

12年前の自分はこちらで免許を取って運転することを想像できていただろうか。

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