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7 weeks #19

2020.8.19 wed

11:30
江東豊洲病院から電話。出ると病棟の看護師だった。父は昨日から発熱と、ときおり震えが続いているということだった。会話はできているが、酸素吸入を行っているという。念のため、ナースステーションに近い病室に移動させるとのこと。

12:40
再び江東豊洲病院から電話。今度は主治医のM医師だった。肺炎を起こしているという。昨日からの震えは感染によるものだったということか。
「本人と面会した方がいい」とM医師が言った。
面会。
状況が良くないのだということは容易に察しがついたが、正直驚いた。あまりにも急だった。
夫に話すと、そういうことなら一緒に行きたいという。念のため、夫も同行してよいか病院に確認して了解をもらった。

14:30
病院に着いてナースステーションに声をかけると、目の前の病室に案内された。一番奥の窓側が父のベッドだった。夫とともに声をかけると、しゃがれた声で父がどうにか返事をした。「しんどいね」と私が言うと、「おしりがいたくてかなわん」と父がいう。おしり?
そういえば1回目の入院時からずっと気にしていた。横になって寝るのが苦しいので、昼夜関係なく身体を起こした状態で、かれこれ1ヶ月以上ベッドの上に座って生活しているのだ。痛くなるのも無理はない。体重を分散させるエアークッションを自分でAmazonで購入し、配送先を病院に指定したら病院から怒られた(宅配便は病院受付では本来受け取れないのだ)などと言っていたのだ。あのクッションは?と聞くと「ない」と言う。今朝病室を移動したときに、どこかによけられてしまったのか。看護師に声をかけて説明し、持ってきてもらうように依頼した。
妹とM氏もほどなく到着し、交互に面会する。

16:00
外来診察を終えた主治医のM医師が病棟に戻ってきた。ナースステーション奥の個室に4人が通されて、M医師の説明が始まる。

いわく、昨日1種類目の抗がん剤を投与し始めて20分ほど経過したところでシバリング(と言うのだそうだ、震えのこと)が起きた。実は1クール目の投与のときもあったのだそうだ。その際、シバリングの時間が少し長かったのでてんかんを疑い、てんかん薬を投与したが効かなかったため、感染症を疑っていたという。抗生剤も投与していたらしい。
今回もまずアナフィラキシーを疑い、次にてんかんを疑い、どちらも違ったため、感染症を起こしていると考える、とのことだった。抗生剤の投与に加えて、昨晩12時ごろから血圧が下がり始めたので、今は輸液と昇圧剤を使っている。抗がん剤の投与は一旦中止。やはり。父は心配させまいとして「2クール目が始まっている」と言っただけだったのだ。
昇圧剤は魔法の薬ではなく、手足の末梢血管を締めて末端に血液を回さないことで身体全体の血圧を保つものなので、使い続けると手足が壊死してしまうため、長くは使えないという。のっけからきつい話だった。

CT画像からは胸水と、炎症を示す白いモヤモヤが確認できる。白血球数は29,000という異常値。肺炎、そしてそれに起因する敗血症という診断だった。免疫が働かず血液内に細菌が増殖するので、それを排出するために血管から水分が外に出される。それによって脱水症状や血圧低下を起こしている状態だ。もともと腫瘍の位置が悪く、血液循環が物理的に悪いのでダブルパンチになっている。1クール目から感染症の疑いがあったので強めの抗生剤を使っていたが、効いていなかったか、もしくは耐性菌に感染したか。胸水を採って感染の原因菌を調べたいが、採取によりさらに血圧が下がってしまうためできないという。技術的には可能でも、状況によっては選択肢にならないのだ。医療が万能ではないことを思い知る。
腎障害も出ており、これ以上数値が悪化すると透析が必要になる。ICUに入った方がいいが現在は満床のため、交渉していると言う。抗生剤の投与をしており、2-3日様子を見る。原因菌を調べられない中で推測して抗生剤を選んでおり、効果がなければ別の抗生剤も検討するが、中には腎障害を促進してしまうものもあるため、それ以外の薬の組み合わせしか使えない。抗生剤が効けば、血管の外に水分を排出する動きが止まり、腎機能も回復するという。それを願って今は待つしかないということだ。

あまりの急展開に、正直、面食らった。だがこれが抗がん剤による免疫力の低下がもたらすものなのだ。検査結果は総じて悪く、普通なら喋れるような状況ではないと医師が言う。しかし父には意識があり、会話ができている。気力で喋っているような状態とのことだった。

医師から、この先呼吸状態が悪くなることが想定されるが、人工呼吸器を使うかと聞かれた。人工呼吸器を使うことで、敗血症からの回復のための時間稼ぎができる。しかし装着している間は眠った状態になる。かつ、一度装着したらこの先外せるかどうか分からないという。機械の装着は本人の身体にも負荷がかかる。この問いにはかなり逡巡した。普通ならこちらから(どちらが良いかの)サジェスチョンをするのだが、今回は本当にどちらとも言えない、と医師は言った。

妹とM氏は、本人に負荷がかかるような治療はしない方が良いのではないかという。一般論としての延命治療は望まないと、元気(?)だった時の父とは話したとM氏が言った。私も一般論としてはその通りだと思った。だが、今この状況で父本人はどうしたいだろうかと考えた。そして父なら、やれる治療は全部やりたいと言うような気がした。

がん患者とその家族においてよくある構図は、本人がつらい治療をもうやめたいと思っていても、家族がそれを受け入れられずに「頑張れ」と言ってしまう、というものだ。だが、父に関しては逆の構図になっているような気がした。本人は頑張りたいのではないか。それを周囲の私たちが止めるのはおかしな話なのではないか。今なら父とまだ話ができる。本人に聞くことができればいいのにと思った。しかし今そのような話をすることは、状況がとても悪いことを本人に宣告するのと同じことだった。せっかく気力で意識を保っているので、状況をありのまま伝えてその糸が切れてしまうことを危惧するとM医師も言った。

しばらく堂々巡りの話が続いたが、結局、機械を装着する負荷に見合うだけの効果が期待できるかどうかが分からず、人工呼吸器は使用しなくて良いのではないかとの結論になった。代わりに、人工呼吸まではいかないが酸素を肺まで送り込む機器もあるので、そちらは使いましょうと医師が提案してくれた。

M医師は、人工呼吸器も透析も時間稼ぎに過ぎないと言った。肺炎、敗血症と腎障害から回復できたとしても、その先が見えない。回復には1ヶ月はかかるだろう。その間、抗がん剤の治療は中止せざるを得ないため、がんも進行する。加えて、昇圧剤もいつまでも使えず、1-2週間が限度だと言う。要するにその間に回復の兆しが見えなければ、見込みは極めて厳しいという宣告だった。

どっしりと重いものを背負ってナースステーションを出る。父の病室にもう一度寄ろうとすると、何やら父がベッドから1人で立ち上がろうとしているのを見つけた。酸素吸入チューブも外れている。慌ててナースステーションに伝える。どうやらトイレに行こうとしていたらしかった。看護師たちに、危ないからベッドから立ってはダメだと諌められ、携帯式のトイレを持ってきてもらって用を足していた。入院中、一貫してパジャマではなく普段着で過ごしていた父の、傷ついたであろう尊厳を思った。

騒動が落ち着いてから、もう一度交互に父と面会した。とは言っても、良くなるといいね、またね、というあっさりした挨拶。これが最後の会話になってもおかしくないのだろうが、でもそんな挨拶はできない。
病室を出、入れ替わりで妹たちが面会しているのを待つ間に、M医師が1枚の書類を持って私のところにやってきた。手足を拘束することについての同意書だった。先ほど父がトイレに立とうとしたのをみての判断だ。
「拘束は、危険と判断される場合に限ります」と医師は言った。「やや錯乱状態のような感じなので」とも言ったが、私はそれについては懐疑的だった。わずかな面会時間だったけれど、父の様子からは、生きている人間としての尊厳を保とうとする意思を感じた。生かされているのではなく、自分の力で生きているのだと。そう思いながら書類にサインした。

全てがあまりにも急な展開だったが、奇妙に落ち着いた心持ちだった。事態が発覚したときから、私の役割は最悪の事態に備えておくことと心得ていた。感情的になるのは御免被りたかった。医師と対等に話ができ、状況に冷静に対処できる家族でありたかったし、父もそういう役回りはおそらく私に期待しているだろうと思っていた。唯一ひっかかっていたのは人工呼吸器のことだった。

17:45
4人で病院を後にし、豊洲駅前で別れて私は夫とともに帰路につく。保育園のいつもの迎えにはもう間に合わない時間になっていたので、延長保育を1時間お願いした。その間に夕食にすぐ食べられるものを調達して、こどもたち2人を迎えに行く。延長保育は、本当はこういう使い方をしてはいけないルールだが、今はそんなことは言っていられない。この状況で家庭の定常運行を続けられるのは園のおかげだ。こどもたちがありあまる健やかさで、保育園にも楽しく通えているのが救いだった。にわかに現実味を帯びて父に迫っている死の気配はあまりにも色濃い。でも彼らからあふれる生のエネルギーのおかげで、私はその気配に引っ張られることなく、地に足をつけて生活を営んでいられるのだった。

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