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7 weeks #17

2020.08.15 sat

11:00
今日は私が一時退院中の父のサポートを担当する日になっているので、父宅へ1人で向かう。子どもたちは夫と家で留守番だ。
食欲のない父にも食べやすいようにと、昨日のうちに買っておいたスープ類と、水分補給に良いかと思い、ソルティライチベース(カルピスのように好きな濃さに割って飲むタイプ)を持参した。

インターホンを押すと父が出て、オートロックを開けてくれる。しかし部屋に入ると、父はまたベッドに戻って休んでいた。「どうですか」と声をかけると、かぼそい返事。それから徐にベッドから起き出してきたが、第一声に「ちょっと、いろいろミックスしちゃっててね」と、何か意味の分からないことを言った。

病が発覚して以来初めて、父から死の気配をはっきりと感じ取った瞬間だった。

前回会ったのは確定診断の説明を医師から受けたときであり、抗がん剤治療を開始する前だったから、傍目には健康そうないつもの父だった。しかし抗がん剤治療が始まればそのままではいられない、ということはもちろん覚悟していた。強い薬はその効果と引き換えにいろいろなものを患者から奪う。頭では分かっていたことだった。しかし一昨日、昨日とM氏からもらったメールには、比較的いつも通りらしい父の様子が書かれていたのだ。日によってこんなにも調子が違うのか。

父の話はいつでも論理が明快だったし、文脈の説明を飛ばしたりしなかったので、父の発言の意味が分からないということは、人生で初めてのことだった。のっけからショックを受けつつ、平静を装って話す。

「昼ごはんに食べられそうなものと思って、スープ何種類か持ってきたよ。どれがいい?」私がダイニングテーブルに並べようとすると、父が制した。
「そうやってたくさん並べられると、選びにくくってね。しまっておいてもらえるかな」とキッチンのほうを指差して言う。私はまたびっくりした。

並べられると選びにくい???

なんだか別人と会話しているようだった。抗がん剤が食欲や免疫に影響することは知っていたが、認知にも影響するのだろうか?そんな話は医師から聞いていなかった。

ともかく父の言う通りスープをいったん引っ込め、冷蔵庫にしまった。

父が自分の手足を見せながら「赤ちゃんみたい」と言う。確かに、前回会った時よりも手足のむくみが強く出て、ぱんぱんになっていた。それからもう少し眠るというので、途中で出入りできるように家の鍵を出しておいてもらった。
考えたところで何ができるわけでもない。私は持ってきたパソコンを広げて自分の作業にいそしむことにした。
自営の写真撮影の仕事で、ありがたいことに初めて印刷物の仕事の依頼をいただいていた。区が地域で配布するフリーペーパーの表紙と挿絵の写真でだった。区内の公園を紹介する特集で、どこも自宅から自転車で行ける範囲の場所ばかりなので、朝子どもたちを送った後、まだ暑くなりすぎない時間帯に撮影に行っては、それを現像して制作会社に納品していた。発行は9月中旬の予定だ。

12:00
父が起き出す気配がないので、自分の昼食を買いに外へ出る。隣のマンションの下にイタリアンのレストランがあった。入ろうとしたがあいにくの満席だった。テイクアウトもできるというので、父の部屋に持って帰って食べることにして、マルゲリータのピザのランチセットを頼んだ。

できあがるまでの時間、カメラを片手にマンションの周りを散歩した。子どもたちを連れて父のところに何度も遊びに来たことをぼんやりと思い返す。長男も次男も、初節句には父が鯛めしを炊いて祝ってくれた。マンション下の公園で、父と長男だけで長い時間遊んできたこともあったし、すぐ横の運河沿いでは、父が長男を抱っこして行き交う船を見せてくれたこともあった。今日の父の様子を見る限り、彼らがもう一度父に会うことは難しいかもしれない。

マンション下の広場に、アガパンサスが生えていた。どれもこれも花が落ちている。彼らの季節が終わったのだ。花の落ちたアガパンサスをまじまじと見るのは初めてだった。花びらはもうないのに、額(と言っていいのか)はまだ青々としてまあるく、そこに花があった形跡をちゃんととどめている。不思議な形だった。思うままに写真を撮る。

ピザを受け取ってマンションに戻り、昼食にする。食欲のない父が匂いを嫌がるかもしれないと思い、キッチンの換気扇を回してその下で食べた。ホールのピザにチキンとサラダもついたランチセットは、私1人には到底多すぎた。食べきれない分は持って帰って家族の夕食の足しにする。共同生活者のいるありがたみ。

15:00
父がのそのそと起き出した。キッチンに立ち、薬を飲む。キッチンに手をついて、上を向いたり下を向いたりしている。明らかにしんどそうだった。
それからソファに座り、そのままの姿勢でまたうとうとと眠った。ベッドにすれば?と声をかけたが、いや大丈夫、と短い返事。本人がいいならと、私は作業に戻る。ときおり目線を父のほうへやり、様子がおかしくないことを確認する。誰かの生存確認をしながら生活するのは、2人の息子たちの新生児期以来だった。生まれたばかりで未来しかない命と、今や向こう側へ旅立たんとしている命。

16:30
父が再び起き出して、またキッチンに立って薬を飲む。それから私に向かって「いやー、ほとんど見守り番になっちゃったね」と言った。いつもの父のような、しっかりした口ぶりになっていた。
「そのために来てるんだからいいのよ。やりたいことは山ほどあるし、おかげで作業が捗ったよ」
答えながら内心、薬のパワーにびびった。さっきまでの父は、一挙に20年分老いたかと思うほど覚束ない受け応えをしていたのに。何の薬を飲んでいたのかは分からないが、それが影響しているに違いないと思った。

謎はほどなく解けた。
調子を取り戻した父が説明してくれたところによれば、1日1回夜に飲むことになっている、強い鎮痛剤としての医療用麻薬を、昨日の朝間違えて、半日早く飲んでしまったという。その服薬サイクルを元に戻すべく、薬が切れた後も半日ほど我慢して、一般の鎮痛剤(イブプロフェンかロキソニンあたり)で凌いでいたのだそうだ。
昨日サポートしてくれていたM氏や妹に言って、病院に電話で相談すれば良かったのに、と私が言うと、過剰に心配されると困るからと父は言った。なるほど気持ちは分からんでもないが、それよりも重要なことがあるだろうに。まあ父らしい話だった。とにかく、おおむね元の服薬時間に近づいたからと、所定の医療用麻薬をようやく飲んだらしかった。

つまり、さっきまでの耄碌は腫瘍からくる痛みと格闘していたことによるものだったのだ。それは腫瘍が縮小していないどころか、進行していることの証左ではないか。思ったが無論、口には出さない。

それから父は服薬管理の大変さについて語った。薬の種類が多くて、それぞれに飲むタイミングも頻度も違うので、患者が自身で管理できない人も多いだろうという。父は自分で作った、一時退院中の服薬管理表を見せてくれた。薬の種類、飲む時間を打ち込んでプリントアウトしてあり、それにチェックを入れながら自己管理していた。いかにも父らしいやり方だった。それでも間違えちゃうこともあるんだもんね、と私が言うと父は苦笑した。

今思えば「間違えた」と私に言ったのも嘘だったのかもしれない。本当は痛みが強くて、決められたタイミングより早く飲まざるを得なかったのかもしれない。服薬管理表まで自前で作る父が、最も取り扱いに気をつけなければいけない医療用麻薬を飲み間違えるなんて考えにくいことだった。だが本当のところはもう、知るよしもない。

その後は他愛ない話をした。私が、仕事で動画編集の作業があり苦戦したと言えば、Macで切り貼りだけの編集ならこのアプリがいいよと父が言う。次男が2歳を前に相変わらず言葉をあまりしゃべらないのだと私が話せば、そのうち堰を切ったようにしゃべりだすさと父が言う。本当はもっと話しておきたいことや聞いておきたいことがいくらでもあるはずなのだが、そういう話をすることは、父に死の宣告をするようで気が引けた。私自身も"いつも通り"でいたかったのかもしれない。

ふと思い立って父にカメラを向けた。父の写真はたくさんあるが、どれもこれも私のこどもたちと遊んでいるシーンばかりだった。気づいた父がカメラに向かって笑う。「嫌?」と私が聞くと「いや全然」と言い、それからカメラに向かってなぜか長男に呼びかけた。私はシャッターを切る。

こどもたちが生まれて以来、私は彼らを通じて、言わば父との関係性を再構築していたのだった。それは私にとってとても新鮮で心地よかった。他聞に漏れず、思春期の娘と父親の関係性は、険悪ではなくとも必ずしも良好とは言えない。その後私は就職して実家を出、父と母は離婚した。そこで私の”子ども時代”にはひとつの区切りがついていた。

結婚してほどなく長男が生まれ、我が家と父の行き来が増えた。父は長男の誕生を喜んで可愛がってくれた。自分に似ているといって、自分の赤ちゃん期の写真と長男の写真を並べてわざわざ送ってきたほどだった。娘しかいない父にとって、孫息子は新鮮な存在なのだろうと思った。長男自身も、物心ついてからはジジと呼んでよく懐いていた。父は昔からアウトドアのアクティビティが好きで、私たちが小さい頃にはキャンプにも何度か行ったが、娘の私たちが父のアクティビティにたっぷり付き合ったとは必ずしも言えない。でも長男なら、そして多分次男も、今に楽しんで付き合うようになるだろうと思った。3世代でキャンプもいいな。それは全方位ハッピーな近未来予想図として、いつもぼんやりと私の頭の中にあった。でも多分それはもう実現しないだろうと分かっていた。

17:30
帰宅の支度をする。本当なら今頃は夫の実家のある札幌にいて、家族でフェスに行っているはずの週末だった。コロナ禍でフェスが中止になり、また感染拡大の第2波が来ていたので帰省は取り止めた。フェスは中止となった代わりに、昨年の映像が配信されることになっていたので、夜は家族でそれを見ながらのんびり過ごすことにしている。
持ってきたスープをどうしようか、食べられそうなのだけ置いていこうかと父に言うと、「見るとどうも食欲が失せるから、何のスープがあるか読み上げてほしい」と言う。朝あやふやな口調で言っていたことは本当らしかった。スープの中身を順番に読み上げると、野菜のスープとポタージュがいいと父が言った。2つを冷蔵庫に入れ、残りは持ち帰ることにする。それから自分のランチの残りを持ち帰るためまとめていると、父が、お昼はどうしたのかと聞く。隣のマンションの下のイタリアンで、ピザとサラダ、チキンのセットをテイクアウトしてきたと言い、余ったけどチキンは子どもたちが喜んで食べるだろうからと言うと、「チキンかー、食べたいって言いてー!」と父が言った。包み隠さぬ本音だった。

父は食が好きで、1人暮らしになってから自分の食べるものはちゃんと自分で作り、私たちが遊びに行けばいつも夕食を振る舞ってくれた。食べ応えはあるがヘルシーな、バランスの取れた美味しい食事だった。食は父の暮らしを豊かにしている大きな要素だったのだ。自分の食欲が減衰し、食材を見ることすらつらくなってしまったことに、一番当惑しているのは他ならぬ父だった。

じゃあねと言って帰路につく。M氏に申し送りのメールを送信した。薬の飲み間違いのことは、父の名誉のために伏せておくことにした。どのみち月曜には再入院して、また病院が投薬をしてくれるのだ。

印刷物の仕事を受けていることを、父に話しそびれたなと思った。自身も50歳で仲間と独立起業した父は、私の起業をかねてから応援してくれていた。私の写真が印刷物、それも区の発行物に使われると知ったら喜んでくれるに違いなかった。手元に届いたら父に見せてやろうとぼんやり思った。でもそれは残念ながら叶わなかった。

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