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21世紀の心理学(宗教心理学ノート⑤)

5月13日、本町の相愛大学にて、名越康文教授による「宗教心理学」講座が開催された。今回のテーマは「21世紀の心理学」。教授は、それを「場の心理学」と呼ぶ。以下、この夜に教授が語られたことを紹介してみたい。(筆者は当日の教授の語った内容を100%理解できているわけではなく、一部誤解も含まれているかもしれないが、筆者なりの解釈としてここに掲載する。)

20世紀の心理学

最近「自分とは一体何者か?」で悩む人が増えているという。本来、自己の探求は楽しいことのはずなのだが、いつの間に悩みになってしまった。教授は、この現象は、1つの文化から別の文化へ移行する過渡期の現象であり、この過渡期においては、20世紀に確立した心理学がむしろ足枷になっているという。

20世紀の心理学、それは自我(エゴ)の探究が主たるテーマだった。深層心理学の三大巨頭、フロイト、アドラー、ユングが自我の奥にある無意識や集合的無意識を発見し、これに基づいた人間心理の解明、悩みの対処方法などを確立した。

無意識とは何か?例えば、ある女性がある男性を好きになったとする。彼女は反対する両親と縁を切り、彼と駆け落ちしてしまう。しかし彼女の(自分でも気づいていない)本当の目的は「家を出ること」だったので、駆け落ちしてしばらくすると、彼と離婚してしまう。この場合、「彼を利用して家を出たい」という本音は無意識の中に封じ込められていて、意識の上では「彼が好き、結婚したい」とイメージされている。後で離婚しようなどとは夢にも思っていないわけだ。フロイトはこのように考え、自分にとって不都合なことは無意識下に隠していると考えた。つまり意識と無意識は矛盾もしくは対立することになる。しかしアドラーは違う見方をした。

アドラーの考える「無意識」

アドラーは、フロイトと違って、意識と無意識が同じ方向を向いていると考えた。例えば次のようなケース。「ある女の子が深層では彼のことが好きなのに、最初の出会いが不本意だったため、その時はカッとなって彼のことをこき下ろした」この場合、彼女の意識は無意識と同様「彼に関心を持たずにはいられない」方向で行動している(「こき下ろす」を選択)。結局、彼に接近するという意味において、意識と無意識は方向が一致している。つまりアドラーは、無意識とは「意識が建設的な方向を向いてない時の心理状態」と考えていたようだ。

自我の分析から、無我・無心の境地へ

こうした自我の分析から、患者の悩みの原因やその行動の目的を見抜き、適切なアドバイスを行うのが深層心理学に基づくカウンセリングだろう。しかしこうした方法論は20世紀の心理学の成果ではあるが、21世紀の心理学では出発点であるに過ぎない、と名越教授は言う。これから探求すべき次のテーマは、「無我・無心」だと。

すでにこれまでの心理学でも「フロー」あるいは「ゾーン」といった概念で、無我・無心の世界が示されている。「フロー(flow)」とは、自分がある程度ハードルの高いことにチャレンジし、そこに集中している精神状態をいう。フローにおいては、意識は集中しつつリラックスしていて、時間の経過を感じない。また行為自体がそのまま報酬となる。「この仕事をすれば給料がもらえる」からやるのではなく、「この仕事をすること自体が楽しい」という心理状態だ。フローは、仕事、趣味にのめり込んだ状況でしばしば観察されるが、中でもスポーツの試合などで最高度に集中した状態は「ゾーン(zone)」と称するようになってきている。

この「フロー」ないしは「ゾーン」というものは、厳密には“無我”というよりは“忘我”(我を忘れている)の状態と言ってよく、この先に宗教的な“無我”の境地があるのかもしれない。いずれにしろこの辺りに、心理学の次のテーマがあると、名越教授は考えているようだ。

文化的遺伝子の影響

21世紀の心理学のもう1つのテーマは、「文化的遺伝子」の存在。例えば日本には先祖崇拝の信仰があり、8月のお盆になると「ご先祖さまが我が家に帰ってくる」と考えられ、お坊さんを呼んで法事を執り行ったりする。こういう民族に広く備わった文化は、ユングの言う「集合的無意識」として捉えることもできるかもしれないが、名越教授は「文化的遺伝子」(ミーム)のなせる業として捉えているようだ。

「文化的遺伝子」(meme:ミーム)とは、リチャード・ドーキンスが1976年に発表した著作「利己的な遺伝子」の中で開示した概念で、自己複製子の一種。ミームは、脳内に保存され、他の脳へ複製可能なパッケージ化された情報と考えられている。ミニスカートが流行したもの、ビートルズの歌をみんなが必死で聴いたのも、スマホを持ちたくてしょうがなくなるのも、みんなミームの仕業だというわけだ。

名越教授は、近年の文化的な事象のいくつかはこの文化的遺伝子の発現によるものと捉えているようだ。例えば、ポップカルチャーにおけるメリスマ(コブシ)の興隆と衰退。あるいは近年の日本のアニメ文化の世界的流行などである。

メリスマ(コブシ)が人の心を揺さぶる

歌を歌う際にメリスマ(コブシ)を効かせるのは、すべての民族音楽で共通して見られる現象だが、腹式呼吸でメリスマを効かせる際は、歌い手は自然に無我・無心の境地になっていると考えられる。が、その場合でも脳はちゃんと声帯をコントロールできている。こういうコブシ回しは、1960年代ごろまでのブラックミュージックには顕著にみられ(例えば、アレサ・フランクリン、ジェームズ・ブラウン、レイ・チャールズなど)日本でも民謡歌手や浪曲師などに広く活用された唱法である。ところがこのメリスマが、1980年代に入ると徐々に衰退し始める。米国の黒人歌手でもホイットニー・ヒューストンあたりになるとコブシは影を潜める。国内でも三波春夫、細川たかしなど人気歌手はコブシをあまり回さなくなっていく。そしてこのメリスマの衰退とポップカルチャーの下降傾向が連動しているように感じられるのである。

このような音楽文化の世界的同時性を裏で支えているのはやはり「文化的遺伝子」の影響があるのだろうか?この辺りは今後の検討課題のように思われるが、心理学を「個人の自我の探求」というパラダイムから解放し、文化伝搬の影響を視野に入れていく点で新しい試みのような気がする。

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