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ロゴスとレンマ(2) 「性起」「縁起」「主伴」

レンマを考えるにあたって、欠かせないのが華厳経の教えの理解である。そこでまず最初に、河合隼雄著「ユング心理学と仏教」に登場する華厳経の教えの核となる3つのコンセプト「性起」「縁起」「主伴」を紹介し、これに沿って「私とは何か?」という命題を考えたいと思う。

1.「性起(しょうき)」について

華厳経では、この世界は2つの“捉え方“があるという。1つは「事法界」もう1つは「理法界」だ。「事法界」というのは、普通の現実のこの世界のことで、ここに「りんご」と「みかん」があれば、「りんご」には「りんご」の本性があり、「みかん」には「みかん」の本性がある、と捉える。(このことを仏教では「自性」と呼ぶ)従って、「りんご」と「みかん」は、その本性(=自性)によってはっきりと区別され、混同されることはない。

一方の「理法界」とはどういうものかというと、上述のように事物を区別している境界線を取り外して世界を見る。よく知られている方法としては、「瞑想」がある。正座し、目を閉じて静かにゆっくりと呼吸を調整すると、次第に物事の輪郭が曖昧になっていく(意識の変性が始まる)。例えば「りんご」と「みかん」の差異が徐々に消えていき、それらの持つ本来の性質(自性)も無くなっていくわけだ(これを「無自性」という)。このような存在の“空化“が起こるには、それを見る主体としての意識の側にも空化が起こらなくてはならない。つまり、事物の1つ1つを区別し、その差異を見ようとする意識そのものを空化する必要がある。このようにして空化された世界(理法界)は、例えてみれば山中を歩いていると突然向こうから霧が立ち込めてきて、周囲が白一色になってしまうような状況だろう。
そして物事は、この白一色となった[境界のない状態]から、我々が通常「現実」として認識している現象的形態へと自己分節していく。このようにして「理法界」は「事法界」に立ち現れてくる。これを華厳経では「性起(しょうき)」という。ちょうど真っ白な霧の中から岩とか樹木の一部が露出してくるような感じだ。(下図参照)

理法界から事法界へ

ここで重要なのは、霧の中から立ち現れた岩や樹木があったとして、それらは霧に隠れた「理法界」のすべてが関与し、すべてのエネルギーが投入されている、ということだろう(これを華厳経では「挙体性起」という)。たとえ野に咲く一輪の花であっても、あるいは空中に舞う一片のホコリのようなものであっても、その背後には全宇宙が関わっている、ということになる。
この構造は、クラウドコンピューターとパソコン端末の関係に似ているかもしれない。(クラウドコンピュータ=理法界、パソコン端末=事法界に例えています)1万台の端末があったとして、そのどれもが中央のクラウドコンピューターに接続されていると、クラウドのプログラムや情報が1つ1つの端末に関与し、端末に映し出される内容はすべてクラウドから送り込まれている。このような構造を想定すると理解しやすいかもしれない。

2.「縁起(えんぎ)」について

次は「縁起」である。
「縁起」は釈迦が最初に大悟した中心的命題だったとされている。一般に「縁起」とは「縁(=関係性)によってすべての物事が起こる」ということである。
つまり(下図に示すように)事象A、B、C、D…があった時、それら個々のものには「自性」は無いが、AとB、AとC、AとD…の間には、それぞれに「関係」はある。そうすると、Aは自性を持たなくても、他の一切のものとの相互関係においてAが成立する。逆に言えば、Aの内的構造にそれ以外(B、C、D、…)の一切のものが隠れた形で含まれている。AはAだけで立ち現れることはなく、常にすべてのものが[同時に・全体的]に立ち現れる。そしてこの図はある一瞬の状態を描いているのであって、次の瞬間には、そのすべての要素が別の様相に[一斉に]変化する、ということでもある。
河合隼雄氏は、このような「縁起」の思想は、ユングの提唱したシンクロニシティ(=共時性)に極めて似た考え方だと述べている。

「縁起」の構造

シンクロニシティ(英語:synchronicity)とは、ユングが提唱した概念で「意味のある偶然の一致」を指し、日本語では主に「共時性」と訳され、
他にも「同時性」もしくは「同時発生」と訳される場合もある。
例えば、虫の知らせのようなもので因果関係がない2つの事象が、類似性と近接性を持つこと。ユングはこれを「非因果的連関の原理」と呼んだ。

Wikipediaより

3.「主伴(しゅばん)」について

華厳経におけるもう1つの世界の捉え方は、「主伴」というものである。ここまでの考え方で、通常世界に存在する異なったものA、B、C、D…は「違うもの」でありながら、元は1つの「理」のエネルギー体から出ている。だとすれば、本来は、それらはすべて同じ構成要素(a,b,c,d,…)から成り立っていると考えられる。
ではなぜ現象としてA、B、C、D…は異なるのかといえば、(a,b,c,d,…)のうち、ある要素が積極的に立ち現れたり(これを「有力」という)、逆にある要素は消極的に隠される(これを「無力」という)ことで違いが出てくる。このような考え方を「主伴」と言う。この場合、a,b,c,d,…のうち、Aの有力な構成要素となるものは1つだけとは限らず、またそれは全体との関係の中で時間と共に変化すると考えられる。(下図参照。ここではa,c,f,が有力で、b,d,eが無力になっている)
こうしてみると、このAというのが動物の個体である場合、「主伴」というのは、動物行動学でいう「生得的解発機構※」の考え方とよく似ていると思う。

「主伴」のイメージ図

※生得的解発機構とは、動物の生得的な行動の背後にはそれを発現する潜在的エネルギーがつねに蓄えられた状態にあり,これを引き出すリリーサー(あるいは,それに含まれる鍵刺激)によってその行動が発現するという考え。コンラート・ローレンツが提唱。

4.「私」と世界の関係は?

さて上記のような3つの概念を導入した場合、「私」と世界との関係は一体どうなるのだろうか?ここからは私見を交えて述べてみたい。

まず「性起」について。華厳経の教えに則ると、「私」は全宇宙からエネルギーをもらってここに居ることになり、また霧の向こうから「私」が立ち現れるのが「生命の誕生」だとすれば、「私」が死んで肉体が滅びてもそのスピリットは霧の向こうに隠れてしまうだけで、宇宙にそのスピリットは引き続き存在しているように思える。そしてそのエネルギーはまた別の場所に「立ち現れる」のではないか?そして「私」と「万物」は霧の向こうでつながっているということではないか。
これは先に示した「クラウドコンピュータと端末」の関係に置き換えるとさらに明確になる。「私」の死は、ある1つの端末の電源を抜くことだろう。しかし電源を抜いても、それまで「私」がなしてきた作業は、すべて中央のクラウドに保管され、他の全ての端末の仕事に(共有の資産として)生かすことができていると思われる。

次に「縁起」から読み取れることはなんだろう?
「私」は、「あなた」との関係性、あるいは「雲」「花」「大地」との関係性によって成り立っており、「私」が「私」単独で成立しているのではない、ということになる。これは河合氏も述べているように、西欧の「個人主義」とは根本的に異なる概念だ。西欧的認識では、「私」はあなたからも誰からも、自然界からも「独立して」いて、その上で、さまざまな関係性を結んでいるのである。(キリスト教文化圏では、特に「契約」によって結ばれる傾向が強い)しかし「縁起」においては、関係性の方が個々の事象に先立つことになる。順番が逆なのだ。

仏教を創始したお釈迦様は、この縁起の思想によって、人が様々な苦しみから脱却する道筋を説いたようだ。が、これについては別項で述べることにする。

最後は「主伴」について。この考え方で面白いのは、「私にはまだ発現していない潜在的要素があり、これが他との関係性によって導き出されることがあり得る」ということである。
つまりいくつになっても人は「変わりうる」存在だということ。そしてそのきっかけは、他人や他の事物(他の自然)との接触(あるいは共鳴反応)によって始まるということになる。

以上、華厳経に示された3つの考え方を示したが、これらが私たちの生き方や社会のあり方とどう関わってくのかについて、考えてみたい。

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