70年前、米軍の行動を規制する「行政協定案」は、なぜ実現しなかったのか①

 前回の記事で、外務省が1950年12月に作成した日米行政協定(現在の日米地位協定の前身)の「草案」が最近公開されて、それが意外なほど「まとも」で驚いたという話を書いた。
 「沖縄タイムス」に続き、沖縄のもう一つの地元紙「琉球新報」も本日、この「草案」に関する記事を掲載した。

米軍の基地外での訓練や移動を規制し、国民への影響を最小限に抑えようとした

 この「草案」で、私が最も注目したのは、米軍の基地の外での行動を規制しようとしていたことである。 
 たとえば、米軍が基地の外で訓練や演習を行う場合は、日本政府との事前協議を義務付け、「公共の安全に充分な注意を払い、充分な防護手段を講じなければならない」と明記した。 
 また、航空機や艦船、軍用車両による通常の移動についても、「両国政府の合意によって定められた経路」に制限した。 
 「草案」はその理由を、「もし合衆国軍隊が日本国領域内のいずれの地域をも自由に通過しうるものとすれば、合衆国と交戦関係に入る第三国より駐在地区外の地域も駐在地区と同様に無差別に攻撃される可能性が増加し、日本国にとって不利だから」と説明している。
 加えて、「特定の通過地域を除けば、他の地域が合衆国の軍事行動によって影響されないという安心も得られる」とも記している。 
 これらの規定からは、基地外での米軍の行動を規制することで国民への影響を最小限に抑えようという考え方が見てとれる。これこそ、今の日米地位協定と日本政府の姿勢に最も欠如している点である。 
 現在の日米地位協定は、条文においても、運用においても、米軍の基地外での訓練や移動をまったく規制しておらず、ほとんど無制限に近い自由を与えている。戦闘機の低空飛行訓練だろうが、ヘリによる吊り下げ訓練だろうが、地元住民や地方自治体の抗議や中止要請を無視して、やりたい放題である。
 日本政府も、安全への配慮を米軍に求めるだけで、中止や規制を求めようとはしない。その結果、国民の安全よりも米軍の行動の自由が優先されているのが実情である。
 もし、今から70年前に締結された日米行政協定に上記の「草案」の内容が盛り込まれていたら、現在の在日米軍の活動をめぐる状況はだいぶ違うものとなっていただろう。
 なぜ、外務省が作成した「まともな草案」は実現しなかったのか。なぜ、日本政府が米軍の行動を全く規制することのできない「主権なき行政協定」になってしまったのか。これから何回かに分けて、このことについて書いてみたい。

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外務省が1950年12月に作成した行政協定の「草案」。今年4月に外交史料館で公開された

日本全土を米軍の潜在的な配備区域に位置付け、「無制限の自由」を求めた米側「草案」

 この疑問を解くヒントは、上記の「草案」とほぼ同時期にアメリカ側で作成された「草案」にある。
 この「草案」は、1950年10月末に米国防省の作業班がまとめた「日米2国間の安全保障協定の条項作成において取り入れられるべき諸点の草案」という名称の文書である。当時、陸軍で占領地域担当特別補佐官を務めていたマグルーダー少将が中心となってまとめたことから、「マグルーダー草案」と呼ばれている。この中に、次のような一文がある。

 日本の領域の全土が軍隊の防衛作戦のための潜在的区域としてみなされるという原則が受け容れられるものとする。 
 米国政府内の通常の指揮系統で行動する米軍司令官は、日本の安全に対する外部の脅威が存在することに照らして、日本政府に通告した後、必要と思われる軍隊の戦略的配備を行う無制限の権限を有するものとする。

 すごいことが書かれている。日本全土を潜在的な米軍の作戦区域としてみなすのが「原則」にならなければならないと言っているのである。そして、必要とあらば日本のどこにでも米軍を配備する無制限の権限を、米軍司令官に与えているのである。
 さらに、米軍が日本国内で持つ特権について次のように定めている。

 米国は、施設または防衛区域内で、その設定、使用、運用および防衛に必要な、またはその管理に適当なすべての権利、権限および権能を有し、ならびに、それらへの出入りに必要な、またはそれらの管理に適当な、施設または防衛区域に隣接または近傍の領海および領域において、すべての権利、権限および権能を有する。

 ここで重要なのは、「施設」つまり基地の中やその周辺で米軍の管轄権を認めるだけでなく、それとは別に「防衛区域」という広範なエリアを設定し、そこでも米軍の管轄権を認めているのである。文字通り、日本全土を潜在的な米軍の作戦区域とみなすことを前提にした規定となっているのである。
 この米側「草案」のベースになっているのが、GHQのダグラス・マッカーサー最高司令官が1950年6月23日に作成したメモランダム(覚書)だ。これは、同司令官がアメリカ政府から対日講和の交渉責任者に任命されたジョン・フォスター・ダレス氏と対日講和の「条件」について協議した結果を記したものである。この覚書には以下のような記述がある。

 日本の全領域がアメリカの防衛作戦のための潜在的な基地と見なされなければならず、無制限の自由が防衛力を行使する米軍司令官に与えられなければならない。

 つまり、アメリカ側は、日本全土を潜在的な米軍の配備地域・作戦区域とみなし、米軍に無制限の行動の自由が与えられることを、対日講和=独立回復の条件として日本に突き付けようとしたのである。

正式交渉で最初に米側が提示した条文案

 講和条約と講和後の米軍駐留の根拠となる安全保障条約の正式な交渉は1951年1月末に始まった。1月29日に行われた最初のトップ会談で、吉田茂首相がダレスに「日本は、アムール・プロプル(自尊心)をきずつけられずして承諾できるような条約を作ってもらいたい。平和条約によって独立を回復したい」と語ったことは前回の記事で紹介した。
 2月2日の事務レベル折衝で、米側は「相互協力のための日米協力協定」の条文案を日本側に提示した。
 外務省の西村熊雄条約局長(日本側の事務レベル担当者)は、この米側協定案を目にした時の感想をこう記している。

「安全保障のための協力に関する駐留軍の特権的権能を詳細かつあらわに規定していたため、日本からすれば一読不快の念を禁じ得ない性格」

西村熊雄『日本外交史27 サンフランシスコ平和条約』

 次回は、このあと日米の交渉がどのように進んでいったのか、そして、なぜ米軍の軍事行動を規制し国民への影響を最小限に抑えようとした外務省作成の「草案」の内容が実現しなかったのかを見ていくことにする。

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