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米軍ヘリ墜落20年-闇に葬られた日米合同委員会合意と米軍をかばった日本政府

 沖縄県宜野湾市の沖縄国際大学に米軍普天間基地所属のCH53D大型輸送ヘリが墜落した事故から今日で20年を迎えた。普天間基地周辺の市街地上空を米軍ヘリが低空で飛び交う状況は、あの時から何も変わっていない。私は2010年に出した『日米密約 裁かれない米兵犯罪』(岩波書店)という単行本の中で、この事故について書いた。事故から20年という節目に改めてこの事故について考える材料にしてもらえればと思い、該当部分をここに再録する。

大学が占領された

 イラクの治安が急速に悪化していった2004年夏、平穏な市民の日常生活に、突如、その「戦場」が持ち込まれた。
 8月13日の午後2時19分頃、イラク派遣を前にテスト飛行をしていた米海兵隊の大型輸送ヘリコプターが、普天間基地に隣接する沖縄国際大学の構内に墜落、炎上したのである。
「ゼミの合宿から戻ってきて、研究室で仕事しようとしていた時でした。突然、大きな爆発音がありました。最初は工事現場の音かなと思ったんですが、2回、3回と爆発音が続いたので窓のブラインドを開けてみたら、どす黒い黒煙がたちこめていたんです。それですぐに下りていったら、ヘリが落ちたと――」
 こう証言するのは、同大学法学部教授の照屋寛之氏である。
「いつ落ちてもおかしくないとは言われていましたけど、まさか実際に落ちはしないだろうと思っていました。墜落現場と私の研究室は100メートルも離れていませんから、もしパイロットの操縦がちょっとでも別の方向に向いていたら、研究室に飛び込んだ可能性もあった。そしたら我々は確実に死んでいたでしょうし、考えると背筋が凍ります」
 実際、大学関係者や市民に死傷者が出なかったのは、奇跡としか言いようがなかった。ヘリが墜落したのは、同大学の正門入ってすぐの広場近くで、もし夏休み中でなければ間違いなく大惨事となっていた。
 同機は、住宅地上空を飛行中に尾翼が突然ちぎれて落下、制御不能となり回転しながら大学1号館に接触して墜落、爆発炎上した。1号館に接触した際、メインのプロペラの1枚が機体からはじけ、大学前の道路を越えて民家の駐車場に飛び込み、停められていたバイクをなぎ倒した。
 さらに、墜落によって、ヘリやコンクリートの破片が弾丸のようになって周囲の住宅地に飛び散った。あるマンションの一室では、窓を突き破った破片がテレビに食い込んで止まった。その横では、生後6ヵ月の赤ちゃんが直前まで寝ていた。母親は、ちょうど近くまで来ていた義妹と電話中だった。義妹が突然、「ヘリが落ちる!」と叫んだ。慌てて隣の部屋で寝ていた赤ちゃんを抱えてマンションから避難したところ、背後で爆発音が響いた。間一髪だった。
 こうした破片は、周囲の38世帯に飛散し、延べ61件の物的被害を与えたという(宜野湾市調べ)。人的被害が出なかったのは、まさに奇跡であった。
 照屋教授が研究室から下りていくと、すでに普天間基地から米兵の第一陣が到着しており、現場に近づこうとすると「入るな」と制止されたという。
「そうこうしているうちに、周辺に黄色いテープが張り巡らされ、教職員も全員立ち退きさせられたのです」
 米兵たちは、事故機周辺の大学構内だけでなく、現場前の市道も約200メートルにわたって「KEEP OUT」と書かれた黄色いテープで封鎖し、土地の所有者であり被害者である沖縄国際大学の学長の立ち入りさえも許可しなかった。さらに、沖縄県警の警察官までもがテープの外に追い出され、その後はテープの外で交通整理をするか、墜落現場を遠巻きに眺めているしかなかった。それは、まさに「占領」状態であった。
 翌朝になると、大学の正門は、まるで米軍基地のゲートのようになった。警備用のショットガンを肩にかけた米兵らが、出入りする軍用トラックやジープなどの車両を一台一台チェックした。
 この日沖縄県警は、航空危険行為処罰法違反の容疑でとった令状に基づき、米軍当局に現場検証を申し入れる。
 日米地位協定の公式議事録には、「日本国の当局は、所在地のいかんを問わず合衆国軍隊の財産について、捜索、差押え又は検証を行なう権利を行使しない。ただし、合衆国軍隊の権限のある当局が同意した場合は、この限りでない」という規定がある。事故機は米軍の財産であり、その検証には米軍当局の「同意」が必要なのである。
 このとき沖縄県警の捜査一課長だった石垣栄一氏は、同意を取りつけるため在沖米海兵隊法務部長に面会したときのことを、後に自著のなかでこう記している。

〈法務部長はわれわれの面会には優しく対応してくれたが、機体の検証には上部の指示を仰ぐ必要があるとして、同意についてはかたくなに拒み続けた。国際法では相手国の法律を最大限尊重し遵守することは当然である。また、地位協定では日米双方が犯罪についてのすべて必要な捜査の実施、並びに証拠の収集及び提出については相互に援助しなければならないと定めている。今回の機体についても同意すべきであると再三要請するが、同意は得られないため、私はテーブルを叩き、『米軍にとって公務中の事案とはいえ警察には捜査権がある。事故の原因究明のためには、ぜひ機体の検証が必要である』と強く要請したが、回答は得られなかった〉

 米軍は、事故機の検証を拒んだだけでなく、沖縄国際大学の財産である現場周辺の敷地内に立ち入ることも、「建物が壊れる危険性がある」などとして許可しなかった。しばらくして、米軍は事故機に白い薬剤をまく作業を始めたが、警察はこの日も遠巻きに見つめるしかなかった。
 この日は、急きょ来沖した外務省の荒井正吾政務官も、現場への立ち入りを米軍に阻まれた。同政務官は、在沖米四軍調整官のロバート・R・ブラックマン中将と面会した際、「ここはイラクではない。日本の領土なのだから、日本の警察を信用して管轄は任せてほしい」と要請した。
 夕方になって、ようやくヘリが接触した一号館への立ち入り禁止が解除されたが、現場周辺への立ち入りは依然認められなかった。
 米軍は、沖縄県警の現場検証同意要請に回答しないまま、事故3日後の16日からヘリの機体撤去作業を開始する。
 撤去作業は、樹木の伐採から始まった。「可能であれば移植を」という大学側の要望を無視し同意のないまま、事故機周囲のアカギやクロキ十数本が伐採された。その後、大型クレーン車が横付けされ、事故機の残骸がトラックの荷台に移されて運び出された。
 そしてこの翌朝、在沖米海兵隊法務部から、正式に「同意」を拒否するとの回答書が沖縄県警に届けられる。
 米軍はまる3日かけて事故機を撤去し、現場に残された燃えかすや灰、周囲の土壌までパワーショベルなどで掘り起こして持ち帰った。作業を行う米兵たちは、防護服を着用し、マスクをつけていたという(後に米軍は、ヘリの回転翼の安全装置に、放射性物質・ストロンチウム90が用いられていたことを明らかにする)。
 米軍が撤去作業を終えた後、沖縄県警はようやく現場検証に着手。地元紙は「『墜落機』のない『墜落現場』を検証する屈辱的な結果になった」(沖縄タイムス)と報じた。
 照屋教授は、大学が米軍に占領された一週間を、こう振り返る。
「許可もなく大学の構内に入ってきて勝手に封鎖したり、同意なく木を伐採したり、まさにやりたい放題ですよ。ああ、こういうのが『戦争』なんだと思いました。軍隊が戦争するときは、作戦を遂行するためだったら民間の土地だって占領するし、邪魔な木を切り倒すのだって彼らにとっては当たり前でしょう。今でも悔しいのは、そこでどうして抗議できなかったのか、ということです。なぜ、『ここは我々の大学だ。君たちこそ不法侵入だ。出ていけ』と言えなかったのか。結局、我々は米兵たちを前に、立ちすくんでしまったんですよ」

現場周辺に黄色いテープを張り巡らして大学構内への立ち入りを規制する米兵ら(宜野湾市提供)

「ガイドライン作成」の嘘

「米軍機が民間地域に墜落した場合の決まりが明確でなく、今回は現場を混乱させてしまった。事故後の現場管理、検証に関するルールづくりを日米両政府で進める必要がある」
 墜落の翌日に沖縄を訪れた荒井外務政務官は、このように語った。
 日本政府は8月末、米軍航空機事故現場での日米の役割分担を定めた対応ガイドラインを作成するよう米側に申し入れる。そして、9月14日には「事故現場における協力に関する特別分科委員会」が日米合同委員会の下に新たに設置され、ガイドライン作成に向けた協議が開始される。
 米軍航空機の事故現場での対応については、「合意事項」に次の規定がある。

<合衆国軍用機が合衆国軍隊の使用する施設・区域外に墜落または不時着した場合には、適当な合衆国軍隊の代表者は、必要な救助作業または合衆国財産の保護をなすため事前の承認なくして公有または私有の財産に立ち入ることが許されるものとする。ただし、当該財産に対し不必要な損害を与えないよう最善の努力が払われなければならない。日本国の公の機関は、合衆国の当局が現場に到着するまで財産の保護および危険防止のためその権限の範囲内で必要な措置をとる。日本両国の当局は、許可のない者を事故現場に近寄らせないようにするため共同して必要な統制を行うものとする>(第20項)

 これによれば、米軍が許可なく事故現場の私有地に立ち入ることは、「不法侵入」ではないということになる。しかし、これはあくまでも、「必要な救助作業または合衆国財産の保護をなすため」の緊急措置として認められるものであって、現場付近を封鎖して一週間にわたって占領することまで容認するものでは当然ない。
 前にも述べたがこの「合意事項」の本文を日本政府は非公開にしており、国会にすらこれまで「要旨」しか提出したことがない。外務省のホームページに掲載されているこの「要旨」では、本文で「事前の承認なくして(without prior authority)公有または私有の財産に立ち入ることが許される」となっている箇所が、なぜか「事前の承認を受ける暇がないときは――」とされている。米軍に特権を認めたことを、国民に知られたくなかったからだろうか。「要旨」では、しばしばこうした「書き換え」が行われている。
 事故後の現場統制については、「合意事項」では、「日米共同で行う」としか書かれていない。たしかに、これでは日米の役割分担は明確ではない。それを、このたびの沖縄国際大学へのヘリ墜落事故を教訓にして、新たにガイドラインを作成して双方の役割分担をはっきりさせようというのが、日本政府の主張であった。
 この事故を契機に「内閣官房沖縄危機管理官」に任命され、桐原弘毅氏も、警察関係の専門誌に寄せた論文のなかで、次のように記している。

〈米軍関係の航空機事故が発生した場合には、日米関係機関が協力して事故対応を行うことは、これまで度々日米間で確認されてきたことであったが、日米間での具体的な役割分担等まで決まっていたわけではなかった。そこで、今回のヘリ墜落事故の経験を踏まえて、事故現場での日米関係機関の役割分担等がガイドラインに盛り込まれることとなった〉

 しかし、実は「ガイドライン」はすでに存在していた。
 それは1958年10月16日の日米合同委員会で合意され、それに従って日米双方が通達を発出したもので、『法務省実務資料』に掲載されている(「合衆国軍隊が使用する施設又は区域外における同軍隊航空機の事故現場における措置について」)。たとえば、現場周辺の立ち入り制限については、次のように定めていた。
・立ち入りを制限すべき事故現場およびその制限期間については、日米両国の責任者間において意見の統一を行うものとする。
・責任ある日本政府の係官は、合衆国軍隊要員以外の者の立ち入る権利と必要とを決定する。
・責任ある合衆国軍隊の係官は、合衆国軍隊要員(軍人・軍属)の立ち入る権利と必要とを決定する。
・日本の警察および海上保安庁の係官は、事故現場またはその付近にいる見物人を整理する。これら日本側官憲が到着するまでは、合衆国軍隊当局が、これら見物人の整理に当る。
・日本の警察および海上保安庁の係官が現場に到着したときには、合衆国側係官は、見物人の整理に当りこれら日本側官憲を援助することができる

 さらに、日本側の通達には、こんな記述もある。

〈(立ち入り制限区域について)今後は、米軍要員以外の者については、日本側に独自の決定権があることが明確になったので、その決定については、実情に即し適切な措置が日本側においてとり得ることとなった(以後略)〉

 沖縄国際大学へのヘリ墜落事故では、これらの合意はまったく守られなかった。立ち入り制限区域や期間は、「意見の統一」どころか、日本側にまったく相談もないままに一方的に決定されたし、日本側は政府関係者も沖縄県警も「合衆国軍隊要員以外の者の立ち入る権利と必要とを決定する」どころか、自らが立ち入ることも許されなかったのである。
 だが、これについて日本政府が、米国政府あるいは米軍当局に正式に抗議した形跡はない。外務省の荒井正吾政務官が事故翌日、在沖米四軍調整官のロバート・R・ブラックマン中将に「ここはイラクではない。日本の領土なのだから、日本の警察を信用して管轄は任せてほしい」と言ったのも、「抗議」というよりは「嘆願」という感じだ。実際、同政務官は中将と面会後、「米軍が事故の原因を調査することは再発防止につながる。事故機の管理を米軍がすることは当然」と、米側に理解を示す発言もしている。
 あげくの果てに、「現場を混乱させてしまった」のは「米軍機が民間地域に墜落した場合の決まりが明確でなかった」からだと偽り、米軍をかばった。本来ならば、米軍側の合意不履行に対し厳しく抗議するのが、日本政府の代表としてとるべき行動であったはずだ。
 一方、米側は「事故現場で日米の協力・連携はうまくいったと理解している」(国務省エレリ副報道官=8月24日)として、現場での米軍の行動に問題はなかったとの認識を示した。
 地元紙が実施した世論調査では、「地位協定を抜本的に改定し、県警中心の捜査を可能にする」が約64%を占め、「米軍主導は仕方がない」と回答したのは2%だけだった。

合意不履行を追認

 事故の翌年の2005年4月1日、日米合同委員会で新しい「ガイドライン」が承認され、公表された。
 新たに作成したかのように公表されたが、構成は1958年に合意された「ガイドライン」とほとんど変わらず、内容が一部改定されただけであった。
 新「ガイドライン」では、事故現場周辺に「内周規制線」、その外側に見物人の安全と円滑な交通の流れを確保するための「外周規制線」を設け、「内周規制線」内の制限区域への立ち入りは、「合衆国及び日本国の責任を有する職員の相互の同意に基づき行われる」とされた。つまり、旧「ガイドライン」で「米軍要員以外の者については、日本側に独自の決定権がある」とされていた制限区域への立ち入りが、相互に相手国の現場責任者の同意が必要と変更されたのである。これにより日本側は、米軍の財産である事故機の検証を同意なく行えないだけでなく、現場付近への立ち入りも米軍の同意がなければできなくなったのである。
 結局のところ、沖縄国際大学で米軍が「ガイドライン」を無視してやったことを追認し、それに合わせる形で、後で「ガイドライン」の方を書き変えてしまったのである。
 2005年5月18日の衆議院外務委員会で、共産党の赤嶺政賢議員がこの問題を質問で取り上げた。しかし、答弁に立った当時外務省北米局長であった河相周夫氏は、1958年に日米合同委員会で承認された旧「ガイドライン」について、「この紙の性格というものにつきましては、私どもとしてここでコメントは差し控えたい。どういう経路でこういう紙があるのか、どういうものなのかということを私としてここで判断することは差し控えたい」と述べて、存在すら認めなかった。
 現在国会図書館で閲覧できる『法務省実務資料』でも、1958年の旧「ガイドライン」は、全文が黒塗りになっている。しかも、この資料集に収録されている30の通達のうち、目次のタイトル(通達名)まで完全に墨塗りされているのは、これだけである。存在自体を国民に知られたくないということの証左といえるだろう。

唯一タイトルまで黒塗りされた1958年の日米合同委員会合意

 ヘリ墜落から9日後の8月22日、墜落したヘリの同型機6機がイラクに展開するため普天間基地を離陸した。日本政府は、事故原因や再発防止策の説明がないままの飛行再開は容認できないと、飛行反対の意思を米側に伝えていたが、米軍はこれも無視した。戦争中の米軍は、ヘリが1機墜落したくらいで作戦を変更するわけにはいかないのだ、という考えなのだろうか。6機のヘリはホワイトビーチ沖に停泊していた強襲揚陸艦エセックスを中心とする遠征打撃群と合流し、第31海兵遠征部隊約2000人とともにイラクへ向かった。
 海兵隊は10月初め、「整備要員がヘリコプター尾部の接続ピンの装着を忘れて飛行させたのが原因」などとする「事故調査報告書」をまとめた。これによると、整備兵らは、部隊のイラク展開準備のため3日連続で17時間勤務を強いられ、睡眠不足で手が震えていた者もいたという。
 その後米軍当局は、事故原因をつくり出したとされる整備兵4人に対し、「職務怠慢」を行なったとして、降格、減給、けん責などの処分を下す。いずれも、軍法会議にはかけず、指揮官による懲戒または行政処分であった。しかも、日本側には「米国のプライバシー保護法に基づき、事故にかかわる米軍関係者の氏名などは教えることはできない」と通告してきた。
 翌2005年4月1日、宜野湾市などが強く反対するなか、イラクでの任務を終えた第31海兵遠征部隊のヘリ部隊が約7ヵ月ぶりに普天間基地に帰還した。第31海兵遠征部隊はイラクの最激戦地、西部アンバール州で任務に就き、数千人もの市民が犠牲となったといわれる11月のファルージャ包囲掃討作戦などの作戦に参加。同部隊も、50人が死亡し、221人が負傷するという大きな傷を負っての帰還だった。
 照屋教授は事故後、記憶を風化させないため、同僚の教員などとともにヘリが接触し黒焦げとなった1号館の壁の保存運動に取り組んだ。だが、本館の建て替えと壁の保存の両立は難しいという大学執行部の判断で、実現しなかった。背景には、日本政府の強い圧力があったと、照屋教授は指摘する。
「政府は、壁を残したら、(建て替えの)完全補償はできないと言ったそうです。補償はしっかりやるから、とにかく壁は早く取り壊せと。基地の危険性を訴えるようなものは、やはり政府にとって好ましくないんでしょうね」
 墜落から3年後の2007年8月、沖縄県警は時効を前に、事故原因をつくり出したとされる整備兵4人を氏名と年齢不詳のまま書類送検。那覇地検は、すでに米軍当局が懲戒処分などで第一次裁判権を行使しているとして、不起訴にした。日本国民の生命身体、財産にかかわる重大な事故にもかかわらず、結局最後まで日本側は何もできないまま、ついに事件にピリオドを打つこととなったのである。
 「壁」が撤去された沖縄国際大学では、事故の記憶を語り継ぐ場として、当時の図書館長の提案で、図書館に「米軍ヘリ墜落事件資料コーナー」を設置することになった。照屋教授がそのプロジェクトリーダーとなって資料の収集などにあたり、2008年1月に開設された。コーナーには、当時の写真や新聞などの関係資料のほか、撤去された「壁」の一部も展示されている。
 事故から5年を迎えた2009年8月、「壁」の横に展示がもう一つ加わる。大人の握りこぶしほどのコンクリートの破片。あの時、生後6ヵ月の赤ちゃんが直前まで寝ていた部屋にガラスを叩き割って飛び込み、テレビに食い込んで止まった破片だ。2008年4月に図書館長となった照屋教授が、破片が残っていることを知り、母親に寄贈してもらった。
 母親は「こんな危険なことがあったことを分かってほしい。二度と事故を起こしてほしくない」と話していたという。

占領時代の記憶

 インタビュー終了後、照屋教授が「沖縄そばでも食べませんか」と誘ってくださった。
 そばをすすりながら、「基地問題に関心をもったきっかけは何ですか」と質問されたので、私は「1995年の少女暴行事件と8万5000人が集まった県民大会をテレビで見たことです」と答えた。しばらく間を置いて、照屋教授はつぶやいた。
「私たちは普通に暮らしていても、基地問題にかかわらざるを得ない環境でした。とてもじゃないけど黙っていられないという思いがあったんです」
 1969年11月、米国で佐藤栄作首相とニクソン大統領との首脳会談が開かれ、両者は1972年に沖縄の施政権を日本に返還することで合意する。照屋教授は当時、具志川市(現うるま市)の前原高校の生徒だった。
 その翌年の5月30日の午後1時頃、前原高校1年生の女子生徒が下校途中、米兵にナイフで腹部や首、頭を切りつけられ、瀕死の重傷を負う事件が発生する。
 犯人の22歳の米兵は、女子生徒を襲いサトウキビ畑に引きずり込んで強姦しようとしたところ抵抗されたため、ナイフでめった刺しにして逃亡。女子生徒が、あぜ道で血まみれになって倒れているところを、農作業中の女性が発見した。
 米兵は、犯行現場近くの米陸軍通信基地に逃げ込んだが、それを別の農民が目撃し部落に通報する。すぐに琉球警察も現場に駆け付けるが、基地には何も手出しできず、なす術がなかった。その後、怒った部落民約500人が通信基地を包囲し、犯人の引渡しを要求。米兵が名乗り出て琉球警察が一時身柄を確保するが、すぐに米軍憲兵隊に引渡される。占領下の沖縄では、琉球政府側には米兵に対し捜査権も裁判権もなかったからだ。
 白昼堂々と、しかも部落と目と鼻の先で行なわれた蛮行に、住民の怒りは爆発した。翌31日には、基地のゲート前で部落民をはじめ、前原高校の生徒や市民ら2500人が参加して抗議集会が開かれた。6月3日には、前原高校の生徒会が抗議集会を開催、同校はじめ周辺の高校から3000人の生徒、教職員が参加し、「犯人の厳重処罰」などを求めて基地に向かってデモ行進した。
 さらに、6日には同校で県民大会が開催され、約1万2000人が参加する。照屋教授も、一人の高校生としてこれらの行動に参加しながら、なぜ警察は犯人を逮捕することもできないのか、なぜ米軍基地はあるのか、安保条約とは何なのか――と考えをめぐらせたという。
 こうした県民の怒りにもかかわらず、米軍法会議が犯人の米兵に対して下した判決は、懲役3年、2等兵に降格、不名誉除隊という、事件の重大性から見れば極めて軽いものであった。これが、その年の12月の「コザ騒動」につながっていく。
 1970年12月20日午前1時過ぎ、コザ市(現在の沖縄市)の中心街にある胡屋十字路付近で、米陸軍兵の運転する乗用車が、酔っ払って道路に飛び出してきた市民をはねる事故が発生する。ちょうど糸満市で主婦をひき殺した米兵が軍法会議で無罪判決とされた直後とあって、現場にかけつけたMPの事故処理を見届けようと、歓楽街の飲み客ら大勢の人が集まった。
 まもなくMPが犯人の米兵を現場から連れ去ろうとしたため、群衆が「糸満の二の舞を繰り返すな」などと騒ぎ出し、犯人とMPを取り囲んだ。これに対しMPが群衆の頭上に威嚇発砲したため、住民の米軍への不満が一気に爆発。犯人の乗用車とMP車両をひっくり返して火をつけ、周辺に駐車してあったYナンバー(米兵車)の車も次つぎと焼き打ちにした。群衆は5000人近くにまで膨らみ、嘉手納基地の第二ゲートを突破、基地内の建物にも火をつけた。米軍は催涙ガスを使用し、それ以上の進入を抑えた。午前7時半ごろになって騒ぎは収まったが、この事件で米兵の車70台以上が焼き払われ、米兵十数人が負傷した。
「警察も頼れない、日本政府も頼れない、じゃあどうしたらいいのか。目の前で犯人を逃していいのか――。あれは起こるべくして起こった事件でした」
 こう言って照屋教授は、さらに続けた。
「罪を犯した人間をかばっておいて、はたして“良き隣人”となれるのか。それは不可能でしょう。いくら米兵を日本に渡したくなくても、日本にいるのなら日本の法律に従うべきです。復帰して形の上では捜査権も裁判権も持つようになったけど、現実はその後もあまり変わっていません」
(抜粋おわり)

今もヘリ墜落の痕跡を残す、焼け残ったアカギ(今年6月に筆者撮影)

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