『シーシュポスの神話』【基礎教養部】
本記事は、J LAB基礎教養部の活動の一環で作成されたものです。
きっかけ
この本を読もうと思ったきっかけは、「死」とか「生きるとは」みたいなテーマに以前から少し興味があるからである。
以前から頭の中でぼんやりとそのテーマについて考えていたり、中島義道先生の著書『どうせ死んでしまうのに、なぜいま死んではいけないのか?』を読んだりしていた。
で、その本の中で紹介されていたのが『シーシュポスの神話』である。
ところで中島先生は
というようにシーシュポスの神話を引用しているが、一応カミュはその著書の中で自殺を否定している。
ちなみに「生きる意味」に興味を持つようになったきっかけは、単に恋愛がうまくいかないからである。僕は恋愛がめちゃくちゃ下手なのだ。あーなんで生きてんだろーって思うくらい真剣に下手なんだ。
僕の不条理(しらんけど)
ここから少し、僕が今抱えている不条理な感情を垂れ流してやろうと思う。例によって、ちょっと公にできない話を多く含むので、ボカしながら語りたいと思う。
カミュによると、不条理な感情とは、
ものである。今僕が抱えている不条理な感情の原因もその比較であり、「事実としてある状態」と「現実」との比較を何度も何度も頭の中でやってきて培ってきたのが不条理の感情である。
で、その僕の「事実としてある状態」とは(ふたつ前の記事でも書いたことだが)「イケナイ恋心」であり、「現実」とは「世間一般の評価」である。
その子のことが好きなんだけど、世間は許してくれない。ぴゅあぴゅあな恋である。だがピュアゆえに世間の目がより鋭く突き刺さる、お前は純粋に(生来)ダメな奴なんだと言われているようである。
もうずっと考えてるのに結論は出ず、引くに引けず、というか引きたくなくて、意地でこの状態に止まり続けている。
その子とはわんちゃんある、とかではなく、希望はないに等しいのだが、それでも止まらなければならない理由があるのだろうか。あー逃げたい→自殺。この悲しい結末をカミュは否定しているというのは先に挙げた通り。
そしてもうひとつ、僕はありえないくらい嫉妬深いのだ。たぶん常人には考えられないくらい、即座に、深く、嫉妬する。あからさまに機嫌が悪くなり、その内にある感情がたまに言動に表出してしまうくらい。
嫉妬はダサい、余裕がない、モテない(と評価される)。そんなことわかってても頭が言うこと聞かない。執着は悪いことらしい、言葉ではそうだと飲み込んでも頭の中ではそれを否定し続けている。
本当にしんどくて、でも嫉妬しても迷惑になるだけで、ただこれだけでも消えてしまいたいと考えたことが何度あることか。どうせ誰にもわかってもらえないけど、でもそれくらい嫉妬の炎は身を焦がす、というか灰にしてしまう。
仕方がないドM
カミュは事実と現実を比較して不条理を感じた時、そのどちらかを否定して生きることは「逃げ」だと言っている。あまつさえ
とか言ってる。初見で読んだ時はドMな奴だなと思ったけど、正直僕もドMにならざるを得ないかもしれない。
というのも自殺を検討することはあっても、いざ衝動的に(計画的でも良いけど)行動に移したことなんてないからだ。心は逃走を求めても、身体がそれすらも拒否する。
死ぬこともできない、素直に生きたい、でも世間に認められない性格をしている、そんな僕はもう板挟み状態で「不条理だなあ」と感じながら生きるしかないらしい。つまり僕は仕方のないドMとなってしまった。
ちなみに僕は普通にMである。
というわけで、みなさん、こんなに醜い性格の僕ですが、どうぞよろしくお願いします。
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