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Piergiorgio Casotti 『Emanuele Brutti, Index G』 (2018, Skinnerboox) 【写真集レビュー】

タイトルの『 Index G 』とはジニ係数のことで「おもに社会における所得分配の不平等さを測る」指標であり、居住地における人種差別の測定にも用いられる。イタリア人写真家、ピエルジョルジオ・カソティとエマニュエル・ブルティは、ミズーリ州セントルイスを例に取り上げ、現代における経済的不平等さ、人種差別による社会の分断とその見えにくさについて、車内から撮影した(ように見える)「カラーの風景写真」、アフリカ系アメリカ人男女のポートレイトと室内を写した「白黒写真」、それに加えて「映画の脚本」という性質の異なる3つの要素を並列させ混在させる独特の構成により物語っている。(2人の写真家の過去の作品から、カラー写真はブルティが、白黒写真はカソティが撮影したと推測される。また、脚本はカソティが担当したと巻末にある。)

カラー写真は、セントルイスの西側を東西に伸びる「オリーブ大通り」の街並を撮影したもののようだ。写真家自身の解説記事(LANDSCAPE Stories MAGAZINEのwebに掲載)によれば、セントルイスでは郵便番号が重要だという。オリーブ大通りに隣接する「デルマー大通り」の北側エリアの人種分布は黒人が95%で平均寿命は67歳、南側エリアは白人が70%で平均寿命は82歳となっている。つまり、1つの通りを境に大きく異なる人種分布となっており、その平均寿命の差から経済的格差が想像できる。撮影されたオリーブ大通りは北側エリアに位置するので、黒人が多く住むエリアということになる。この風景写真の特徴は、日中に撮影しているにも関わらず全く人が写っていないこと(走行している車は写っているが、運転している人ははっきりとは見えない)。見たところ活気がなく寂れているようだが、建物の壁や塀には落書きはなく、荒れた印象はない。1枚の写真は2ページに分割され、見開きは、半分に分割された異なる写真が2枚並ぶように構成されている。これは、1枚1枚の写真を見せることより、車での移動と連続性を表現する意図によるものだろうか。あるいは、分断された2つの世界を意味してるのかもしれない。

白黒のポートレイトは、意図的に顔に影ができ、暗くなるようにライティングされている。そのために表情の細部は判りにくい。室内写真のほとんどは、何も残されていない空の状態が写されていて、壁や床の汚れ、わずかに残された壁の貼り紙などに、いまはそこにない生活の痕跡が見える。白黒のセクションは、薄手で光沢のある紙が使われていて、マットで厚手の紙が使われているカラー写真のセクションとは、この点でも大きく印象が異なる。ただ、どちらの写真にも共通しているのは静寂さ。カラー写真は車から撮影しているようでいて、ブレなどの動的な要素は全くなく、そこに誰も存在していないかのような静けさがある。白黒写真のほうも、影になって表情が分かりにくいポートレイト、家具などの生活感のない空っぽの室内と、まるで言葉がまったく発せられない無言劇のように進行する。

2つの性質が異なるセクションは、分断された2つの並行する世界を意味するのだろう。室内の写真において、登場人物がブラインドの隙間から外部を覗き見る1枚の写真と開口部からわずかに外部の様子が見えることにより、その2つの世界の僅かな「つながり」が示唆されているが、並行する世界は表と裏の関係にあり、深く交わることがない。並行世界(パラレルワールド)の構成は、文学的な表現だ。たとえば、村上春樹の『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』では、スリルに満ちた「ハードボイルド・ワンダーランド」と静謐な「世界の終わり」の2つの世界が交互に現れ、そこに住む「私」と「僕」が物語の進行とともに次第に同一人物として重ねられていく。このパラレルワールドの構成は、その後の『海辺のカフカ』『1Q84』『騎士団長殺し』に引き継がれ、村上の長編小説を代表する特徴となっている。この例のように、並行世界は、文学や映画などでは度々使われる手法だが、この写真集では、現実の社会の中に現れた不可視の分断線をより際立たせるものとして使われている。

その中で「映画の脚本」は、何人かの(架空の)登場人物の生活の中で起こった断片的な出来事が、織り交ぜられている構成になっており、写真集(=無言劇)の中に挿入された、いわば「ジャンルをまたがった劇中劇」となっている。それらのエピソードは、人種的、社会的、文化的な摩擦を微妙なニュアンスで表現している。静謐さを湛える2つの無言劇の間に、語りによって表現される劇中劇を挿入することで、鑑賞者自身がパラレルな2つの世界を往復し、結びつける存在として位置付けられることになる。

アメリカでは、ドナルド・トランプが大統領になったことがきっかけで、社会の分断の深まりが大きく取り上げられることになった。見えづらかった社会構造が、選挙の進行過程とその結果により鮮やかにあぶり出された。不可視の社会問題が、ある出来事をきっかけに輪郭が明らかになる事は興味深い。この写真集で扱われている経済的不平等さや人種差別が偏在化し進行している背景のひとつとして、監視社会の深化が浮かび上がる。監視社会の研究者デイヴィッド・ライアンは、その著書『監視スタディーズ』の中で、消費者行動、官庁、公共機関、商業の分野で収集された記録から抽出された個人データと、現代の都市における生体認証、ゲノム、位置技術、追跡技術などから得られた個人データがリンクする、監視の「複合体(アッサンブラージュ)」のリスクについて述べている。

最後に、これらの論評は、新しい都市政治が台頭していることをにおわせている。この政治は、監視のアッサンブラージュが電子システムを使用して、現在の社会地理に個人データを重ね合わせた地図を作成することによって、都市の日常生活を形成するよう調律されている。もし新しい都市政治が現れつつある課題にも公平であろうとするなら、貧困と収奪の場と、そうした場がどのように富と支配の場に関係しているのかに関心を向ける必要があるだけでなく、両者の関係性自体が監視によってどう形成されているかにも関心を払う必要がある。新しい種類の社会階級が、人口を等級化し、カテゴリー化するコードによって創出されつつある。社会階級が創出される巧妙な手口は、そうした政治が差別を引き起こす前に可視化されなくてはならない。(『監視スタディーズ - 「見ること」「見られること」の社会理論』より引用)

些細に見える1つのデータ(購買記録など)が、他のデータと結びつきプロファイルが構築される。そのプロファイルは、それがどんな種類の人物であるかを示唆し、カテゴリー化、等級化を助け、新しい階級が創出される。それが地図データと重ね合わされることにより、地域と新しい階級が結びつく。この監視構造の観点から写真集を見ると、まさに「見る」「見られる」関係が「カラー写真」と「白黒写真」の間に示唆されていることがわかる。車から見たカラー写真は外部から人々の行動を監視するかのような視点であり、内部の人々は監視を恐れている存在(=社会的弱者)のようである。

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