2024年6月16日(日) 詩集は最後まで読めないのに小説は読める。不思議だ。

日曜日は、いつも以上にゆるく、そうだなぁ、たとえば田舎の縁側で扇風機の風に当たりながら寝転がってスマホで書くくらいの内容にしたい。ごろごろしながら書けば絶対にゆるい内容になるという確信はないけど、それくらいリラックスした状態で書けば日々の仕事でキリキリした状態からは抜け出し、気持ちを切り替えて言葉を生み出すことができると思うのです。

昨日読み始めた原田マハさんの「生きるぼくら」は今朝少し早起きをしたこともあり、朝の7時くらいに無事読み終わりました。400頁を一気読みしたくなる小説に出会える確率はどれくらいなんだろう? 100頁に満たない詩集をいまだに何冊も読了できずにいるのに、小説は最後まで読み切れる。結末の有無が関係してるのかな? 詩集は一編ずつ区切られているものもあれば、1冊を通して言葉を届けてくれるものがあるように思うが、読み終えたときにスッキリしない感覚になったことが何度かあった。ボクが詩集に興味をもってからまだ2、3年くらいだから、詩の読み方を理解していないことがその原因だろう。本を読み終えたのに終わりが見えない。自分でその続きを見つけなきゃいけないような気持ちになる。今でこそ、そういう感覚を大事にして、詩から受け取った印象をもとにボクの言葉を探そうと思えるようになったけど、やはりフワフワした気持ちが漂っている状態は心に余裕がないと辛くなることがある。

だから、ハッキリと終わりを示してくれる小説は、安心して最後までページをめくらせてくれる。左手で持っている紙の束が少しずつ薄くなっていくたびに、物語は終わりに近づいていく。「まだ終わって欲しくない。どうしてこの部分の話は深く見せてくれないの?」。知りたくても作者が語ってくれなければ、知れないこともたくさんある。そのすべてを受け止めて、最後の頁を読み終えたときには、何とも言えない気持ちになる。今回もそうだった。小説ではここで話は終わっているけれど、小説の中ではまだその続きがある。読者はそれをイメージしながら、自分だけの続編を想像することもあるだろう。登場人物の中から脇役にスポットを当てて、踊る大捜査線のようなスピンオフを考えてしまった人もいるかもしれない。疲れてても、こんなことできるだろうか? 

今ボクが疲れているか、疲れていないかで言うと、ハッキリと疲れていると言い切れる。それなのに、一気読みしたくなった小説。原田マハさんの「生きるぼくら」。帯に書かれていた他の小説も来月くらいに読もうと思っています。

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