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嘘は時に愛となる

嘘。


おはよう、世界。

私は死にたい人だ。
とかく毎日のように『死にたい』と思い、
朝が来て目が覚めるたびに絶望し、
夜が来る度に『明日はどうか目覚めませんように』と
虚空に祈りを捧げている。

でもそれを私は誰にも言わない。
家族はもちろん、友達(残念ながらいるのかは私が思う限りいない気もする、あれは『同僚』だ)、会社の人。
ここ数年は医者にも言わなくなった。

理由としては、友達・会社の人は打ち明ける関係でもない(むしろ煙たがられて腫れ物扱いされるのがオチだろう)し、
とりあえず私の家族は私が辛い気持ちを吐こうものなら、『どうしてそんなこというの』『悲しくなるからやめて欲しい』『聞きたくない』とどうも私の気持ちを受け入れられないらしい。
最後に医者(もちろん精神科だが)は
『そうですか』『入院しますか??』『うちでは知りません』の3パターンなのでもう信頼していない。
(精神科がなんの助けにもならないのはまた別の記事にしようと思います)

そして、
私はこのことをこの世で1番信頼して愛していて、
『なんでも打ち明けようね』なんて約束した
恋人にすら告げていない。

うそ…

これは別に恋人に責がある訳では無い。

私の恋人はお母様の浪費癖に悩まされながら人生を歩いてきた。
そしてそのお母様は夫や子供に浪費を辞めるよう、指摘されると『死にたい』『死にたくなる』と言っていたそうだ。

そして恋人とお父様はそんな辛い言葉を吐かれるとそれ以上は何も言うことが出来なくなる。
『母は死にたいといえばうるさく言われないことを理解して「死にたい」というのがとても嫌だ』と漏らしていたのを覚えている。

それから、わたしはそれまでもいえなかった『死にたい』を恋人に打ち明けようと思うのをやめた。

それは愛だ。

もちろんお母様がどんな状況なのか、本当に病的に死にたくなってしまうのか、それともそれは追求から逃げるための方便なのかは、これだけでは私には推し量れない。

でも1つ分かるのは
私の恋人は『死にたい』と言われることに嫌なエピソードを持っていると言うことだ。

もちろん私の「死にたい」は違う。
方便でもなく、本気で自分をこの世から消し去ってしまいたいという願望だ。

でもきっと同じ『死にたい』なのだから、
私のどうしようも無い希死念慮は私の恋人を過去のエピソードと相まって刺すだろう。

それがどうにも嫌だった。
そんなことをするくらいなら、何も告げずに首をくくる方がまだマシだと思うくらい。

これをあなたは嘘と呼ぶだろうか。

恋愛では2つの背反する考え方がよく出される。
『ありのままで愛し愛されるのが幸せ』

『恋愛は究極のサービスである』
というものだ。

これはどちらも間違いでは無い、とは思う。
ただし
差し出した愛が相手にとって不快なものでない限りである

例えば何かヴィンテージのものを見た時に
『過ぎた年月が感じられて価値があり、美しい』か
『ただの汚らしいゴミなのか』
かは相手の価値観であり、どちらも間違いでは無い。

だから今日も私は本当に死んでしまうまでは
できる限り嘘をつき続けるだろう。

それは偽りかもしれないが、
私にとっては究極のなのだ。


もし、私の愛が変わる日がくるのなら。
来ないかもしれない。
それはきっとまた別のおはなし。